No Limit Seoulで

twitterで報告したとおり、
No Limit Seoul
はすばらしいイベントだった。
松本哉さんのレポート
雨宮処凛さんのレポート


No Limit Seoul で、一つひっかかり、後悔していることがある。
そして、ソウルから帰ってきて、
ノーモア・マヌケ主義 @no_more_manuke
さんのツイートのリンク先などを読んで、ああ、といろんなことが腑に落ちた。

「アジア・ギャルズ・バー」という問題があったことは知っていたが、あまり、経緯を知らず、そして、鈍感な私はそれがどう問題だったのか、きちんと理解していなかった。

ひっかかっているソウルの路上ライブでの一つの出来事と、「アジア・ギャルズ・バー」問題とが繋がる感じがするのだ。長くなりそうだけど、ノーモア・マヌケ主義さんへのレスとしても、文章を書かなくては、という気持ちになっている。


順番に書いていきます。

ソウル、土曜日のデモのあとの路上ライブでのこと。日本からのバンド、私は知らないバンドだったんだけど、音楽に合わせ「みんな同じ、肌も同じ、顔も同じ、だからアジア人仲良くしようぜ。みんな、このメッセージを日本語わからない隣の人に、訳して伝えて」とMCがあった。

私は、そのメッセージに違和感があった。そんなこと、訳して伝えたくない、と思った。
しかし、
そのとき、またその後、それにリアクションできなかった。それが気になっていたのだ。帰りの飛行機の中で、このイベントを作った人々への感謝とともに、自分のノーリアクションを後悔していた。

私は「みんな、それぞれ違う」と思う。違うけど、ここに集まっていることが大事だと思っている。
「みんな同じだから、仲良くしよう」というのは、私は違う考えだが、そして音楽で一体感を伴った楽しさを作り出せるミュージシャンなのに、なんでそんなことを言う、とは思うが、その内容が間違ってるとか言いたいのではない。

でも、嫌な感じがした。たぶん、理由は2つある。
一つは、それが、韓国であるのに、日本語で発せられたこと。
一つは、なんか、日本の運動や社会である種の感じを思い出させるものだということ。

ライブのあった場所は、日本の朝鮮支配の中心といえる朝鮮総督府のあった、景福宮・光化門のそば。(朝鮮総督府は、広大な王宮の正面の光化門を取り払い、王宮を壊して作られた。その建物は議論の末、1995年にとり壊され、そこに2010年、光化門が再建されたとのこと)

日本の朝鮮の支配は、一般的な植民地をこえ、言葉を奪い、文化を奪い、神社を建て、同じにしようとするものだった。「皇民化教育」「内鮮一体」というスローガンに表れている。
それは、違いを、劣っているものとし、差別することでもあった。その後の侵略戦争のスローガン「大東亜共栄圏」の発想にも通底していると思う。

あの場で「アジア人、みんな、同じ」というのが、日本語で発せられるのは、気持ち悪かった。そんな難しい言葉ではないだろうから、韓国語で発してほしかった。本当に「みんな同じ」というメッセージを伝えたいのなら・・・

「アジア・ギャルズ・バー」については、
ここに、詳しい経緯があった。
https://goo.gl/nNQCax
NO LIMIT 東京自治区 声明文
https://goo.gl/pnqTAo
問題提起以降・・・
https://goo.gl/yKt2Z9
NO LIMIT 東京自治区 新しい声明文
https://goo.gl/V8cqzC

これは、ジェンダーの問題だけではない。性労働の問題でもある。そして、
やり取りの中の、「なぜ、『アジア』ギャルズ・バーなのか」という問いにあるように、植民地主義の問題でもある。
性差別、民族差別、売春婦差別、植民地問題が繋がった問題。従軍慰安婦問題のように。

そして、それらを含んだ、場の作り方の問題である。


やり取りを読んで、あのライブの時感じたのは、やっぱり、植民地主義の臭いだったんだと思った。

ほんとに仲良くなるには、植民地のことは、避けられないと思う。少なくても、私も全く不十分だが、日本が朝鮮でどんなことをしたのか、その歴史を知っていることは、前提だと思う。(これは、学校教育でもきちんとされるべきことだが)

そして、植民地主義を否定すること。それは、その文化をリスペクトすること。
植民地時代にそれとは反対のことばかりしたのだから。韓国の文化を侮蔑することばかりした。これは今も傷として残っているだろう。
リスペクトすること、これは自然なことで、好奇心というものをもっていたら、自然とそうなるのだと思う。
そして、それは自分の凝り固まった頭をほぐしてくれる。気持ちよいことだ。

なので、せめて、韓国語で発してほしかった。それで、その文化を大事にしてることは伝わる。そのうえで、みんな同じ、と言ってほしかった。
日本語でみんな同じ、それは日本文化のなんか橫暴なおしつけ、それは大東亜共栄圏的なものを感じてしまう。
そう、この東アジア解放区というのに、植民地的なものが入ると、大東亜共栄圏になってしまう、のだ。

(注) ただ、現状、国家のパワーでいったら中国が大きいし、民主主義ということなら韓国や台湾の方が進んでるし、あまり日本や日本社会に、他国に押しつけられるものはない。


「東アジア・ガールズバー」問題、その後の対応などから、ソウルでこのイベントから離れていった人々がいたと帰ってから知った。
ジェンダー面もあわせて、東京の植民地主義的なにおいを感じて、かかわりを断ったこともあったのではないか。
去年、東京の高円寺で生まれ、そこからやってくるともとれるイベントに、植民地の匂いがあれば、嫌になるのはわかる。

実際のイベントは、ソウルで作られ、ソウルのテイストにあふれたものだったと私は感じた。すごい勉強になった。(日本の水準からすると)全くマッチョでなく、そして、ジェンダーや暴力について考えられていると感じた。



そして、場の問題。
これが、アジア・ガールズバー問題で、すごく大きなテーマとなったんだと思う。
「ノリ」のようなもの。「わかるだろ、おまえ」みたいな感じ。

この同質性をもとにしたコミュニケーションには、小学校入学以来、ほんと悩まされてきた。「ノラ」ないといられない、「ノッタ」ふりをしなくていけない、こんな窮屈なものはない。そして、それは排除やいじめにつながっていく。

こんな閉鎖的なものが、インターナショナルなイベントに持ち込まれては、かなわない。


あのライブのとき、ちょっと、このノリが持ち込まれるように感じた。「みんな同じ」を強制されるかんじに。
もちろん、ライブなので、ノリを作るものだろう。でも、ノレないものが居られ、またノイズを発せられるような場所、No Limit なのだから。

そういうわけで、あの時、「私は違う」ということを表明できなかった、ちゃんとノイズを出せなかったのが、かえすがえす残念だ。
充分できそうだった場だったのに。それが出来たら、少し恩がえしができたのかもと思ったりした。

アジア・ガールズバー問題でこのイベントの関わりから去った人たちがいた、そこには、色々残念なことがあったんだろうと思う。
それでも私にはすばらしいイベントに感じ、楽しかったし、色んな刺激をうけた。ぞんぶんに歓待してもらった。とくにソウルのスタッフには感謝しきれないくらいだ。

* 注
ところで、私はマヌケ主義に反対はしていない。大賛成している。
私の理解では、マヌケ=アナーキストだ。
マヌケは、どこか世界共通で、一瞬で通じあうところがある。マヌケ、またはマヌケの作った場所は、出会うのが初めてだとしても、初めての気がしないものだ。
それも一つの「ノリ」で、居にくい人もいるではないかと言われるかもしれない。でも、同質性をもとにした「ノリ」とは違う。それは、うまくいえないけど、インターナショナルで、オープンマインドなものだ。