耳だれ?日記 (1999)
劇団耳だれ?
1999年9月~11月、自転車で移動しながら気になるところにテントを張り、そこで出会う人や事件から芝居をつくる。鵠沼海岸での「聶耳音楽祭」、熱海での「お宮の卵」、生田緑地での「TARO is Back」など。2000年4月には上野公園で「報告公演」をした。主要メンバーは小川てつオと小川恭平。
以下は、小川恭平による日記。小さなパソコン(ポケコン)を持っていき、随時HPで更新した。
9月11日、高円寺
非常に体力的に心配なわたし
岡画郎にて、てつオ、マッハ、町田海、ねてる
私、寝付けず、どこかでゆっくり眠りたい、貧乏旅行(朝はやく起こされる)最大の欲求をすでに欲している。岡さんの事、気になる。
気になる事、いろいろある。それらを旅の間考えてみたい。
明日の旅だち公演、どうなるだろう。
9月12日、高円寺ー希望が丘
公演前の落ち着かないかんじ。
マッハきて、日本刀(切れない)持ってくる。これを路上でふりまわすると警察がくるかどうか話し合う。
サイトウさん初公演の抱負をきかせて下さい。
私は常にリアルなもの、関係について考えています。
きのう会った人が言っていたこと、舞踏家や音楽家と会う機会があってもこの人本当に生きているのだろうか?何を考えているのかあるいは何も考えていないんじゃないかという人ばかりだと言っていた。 私のいろんな人との関係はまだまだリアルではない感じがしています。芝居では決していかないリアルな関係を芝居で考えていきたいと 思っています。リアル万歳!
第一回公演「さらば」始まる
神戸さん、耳だれに対する期待を教えてください。
今日はじめて見るのですが、(当り前ですが)他人の日常生活を覗き見しているようで面白いですね。
旅での公演もこんな調子なのかしら?
楽しみにしています。(ぜひ観にいきます。)
ありがとう
西岡さん、耳だれに期待ってありますか
西岡「若干。でも、失敗する事も余裕であるだろうなって思う。しかもずっと追いかけつづける事は団員でもないと難しいから、続けることのおもしろ味も、、、」
耳だれはどこで?七つもり
ああ、そうですか、今日これから旅だつのですが、なにかこう言いたい事ってありますか?
どこに?また観にきます!気おつけて
どこへだかまだ決まってないんですよ。
柳田さん、耳だれに何を期待しますか
よいたびをしてきてください。
ありがとうございます。
NEWS、山本さんから、餞別3000円いただく。
関根さん
あそこへ行ったらいいなというところありますか?
越生、関宿、喜連川 そして 大網。
それはどんなとこ?
ネーミングが耳だれっぽいというか。逆にどういう場所でやりたいというのはありますか?
いやあ
餞別1000円、そして5000円!
ありがとございます
この5000円こう使って欲しいとかありますか
特に要望はありません。皆さんのお役に立つようであれば・・・。
サモアさんなにかひとこと
居候ライフを私が配布しようかと思ったりしたけど、耳だれが高円寺にいるなら、まっいっか。
いやあ、やっぱりどっかいきたいなあ、
そして出発
サイトウ、マッハ、町田、おがてつ、きょへ、関根
なんとはなしに多摩川をめざす、途中桜上水セブンイレブンで、関根さんと別れ、きょへの自転車の調子がわるくなったり、多摩川あきらめ、前途多難なかんじで、世田谷区立希望が丘公園にテントを張る。よる1時。
第一回公演「さらば」の反省
私、きょへの反省
1 うまく、さらばができなかった。思い返すと、今回の公演の内容は何したらいいのか、どこへ行ったらいいのかわからないけど何とか出発するということ。そして目標は友達、きてくれた人、高円寺の街とうまくお別れをするということ。でもあわてていきなり出発してしまったかんじがする。さらばすることが大事だっ たんだな、と後で気付く。
2 最初のセックスシーン
5人でセックスシーンはちょっと無理だった。ちょっと、始まる5分まえに決めて、その決め方がとくに坪井さんと宮崎さんに悪いかんじがした。それはなんなのか話し合わず、セックスシーンとしかきめなかったので、不安があるというか、逆に覚悟を決めてのセックスシーンではなかった。
9月13日、希望が丘ー和泉多摩川
希望が丘に温水プールあり、でも水泳帽着用とかいてある。
監視の人に、頭につけてるビニール袋は水泳帽と主張したり、普通のパンツで泳いでたので、退場といわれたりした。
マッハ君と別れ、多摩川へむかう。暗くなって着く。町田くんが水場(トイレ)を見つけ、てつオが向こうにある木を指してあそこがいいのでは、と指さす。向こう岸にはイエスタデーというホテルがある。
ひるみたらここはどんなとこだろう。
9月14日、和泉多摩川
ホテルTodayをすることになる。テントがホテル。
Todayの歌(yesterdayの替え歌)、Todayのちらしとか作ってで宣伝しにいく。強風。
焚き火でカレーを作っていると、てつオにお金を借りに木村さんくる。 木村さんホテル・today、いかがですか
ここで雨、台風16号だ。雨の中、音楽演奏で盛り上がる。
10月30日に TARO IS BACK、川崎にできると噂に聞いてた岡本太郎美術館がここ、いまテントをはってる生田緑地に開館するのだ。かっこいい TARO IS BACK のポスターに触発される。あれこれ3人で考える。TARO IS BACK。
何をしたかだけでなくてどうしてそれをするようになったかを記録したいなと思う。「さらば」の反省で何をしたらいいのかわからなかった、というのがあった けど、それぞれの瞬間、なにかしてて、それがどう決まっているのか、旅は決めなきゃいけないことがおおくて、僕はいろいろ言っても、最終判断はてつオにまかせすぎかも、それは楽をしてるということで、芝居でもそれぞれの瞬間それぞれがうまく決められるようになればいいと思う。
てつオ君、居候生活を中断して、耳だれをはじめたわけですが、どうですか。
いやー、楽しいですね。いまは、テントを持っていない恭平に居候されている感じ。ただ、心配なのはだんだん人が減っていっていること。やはり、大勢いたほうが、耳だれ?としてやれることに幅が出るだろうし、何より旅行していて楽しいし、便利でもある。家ってせまいからね、テントは周囲も居場所だから、広々した気分になるね。恭平はどうですか。
わたしとしては、いま旅をするのはイイタイミング。芝居をしたいかは不明、よくわからないけど旅は芝居みたいだということにして、そのペースをグットおとすと耳だれ?
ぼくの中には、今まで芝居に向かう部分は無かったんだよな。それは「さらば」の時にも、芝居っぽさにたいする違和として感じた。ぼくはやはり美術の発想が おおい。だから、演劇経験者のマッハや宮崎さん、舞踏経験者の岡さんや中村さん、がいないのは残念だな。色々、習おうと思っていた。しかし、このメンバーによって、やる事が変わる感じが、はっきりしているのは、いい感じだなぁ。
9月16日、生田緑地
現地にいる事のおもしろさ(てつオ)、「TARO IS BACK」公演をするにあたって気になった事は、岡本太郎美術館の建設をめぐって反対運動があるということを町田君からきいたことだ。太郎美術館にむかう一群あり、なんとなくついていくとそれが反対運動の中心、生田緑地の自然を守る会、その説明をうけて視察する共産党議員団と市の職員だった。まぎれて耳だれも自己紹介などをし、開館前の岡本太郎美術館に入れてもらえた。わかった事。感じた事
環境アセスメントをしていない。(市がわにいい訳あり)
裁判になってる。原告は生田の自然を守る会とか、キツネやタヌキ。
計画の一年前に、100年、ここの自然に手をつけない、という報告書が、どこだっけ、川崎市環境保全局からかだされていた。
美術館は谷間の奥にあり冴えない。
そこは前は緑地に囲まれたゴルフ練習場だった。
ただし緑地に美術館にいく道を工事中。(木を切らずに)
シンボルタワー、母の塔(30m)はどこからも見えない。
美術館そのものに反対してるわけじゃないのよ。
中にいれてもらう、こっそり写真をとる。
広い
作品は放置されててキノコとか生えてるから補修だけでも何億もかかるのよ。
雨が降ってきて、母の塔で雨宿り
帰り道、てつオは一番気になったおじいさんの傘にいれてもらっている、その人は、酒井さん(教授)。
その後、反対運動のビラとかもらう。だめ連とか沈没家族とか知っててびっくり。
美術館の建設そのものには反対してないという言い方はよくないのでは。この問題はごみ問題だ。教授(守る会)の「なにもないものをつくる」という言葉が気になる(てつオ)
9月17日、生田緑地
ここに住んでるというかんじがしてくる。いいところだ。 3人で生田緑地を散歩する。広い。 だんだん面白くなってくる。
能をみる。
9月18日、生田緑地
TARO IS BACK
この問題はいろいろな層がある。一番うえは、たぶんパンフレットで連発されてる、世界的芸術家という言葉、川崎の生んだ世界的芸術家が、、、
でもその層をめくっていくと岡本太郎美術館はごみ処理場、というのだでてくる。だいたい一見立地からいっても母の塔を煙突としたごみ処理場のよう。(目立たないようにしてある)。ビラっぽくいうと
売れないし捨てられない、そのうえ保管にもたくさんお金がかかる。そんなものを市長はもらったというが、おそらくは税金対策かなにかで、川崎市に捨てたのである。その処理場がつじつまあわせの結果緑をけずって生田緑地にできた。
うまくはあるがつまらないもの(作ってないもの、人の感じられないもの)、太郎が一番嫌ったものだと思う。そういうかんじのところに作品をいれられ、自身は世界的芸術家と権威(これも嫌った)つけられる。不幸だと思う。
作品がごみとして扱われているという話だけど、もう一点、作品がごみになってしまうという問題もある.作品 AND ごみ。
てつオはいう、日頃考えていることは置いといて、旅の間は耳だれのことだけを考えていようとおもったけど、耳だれをしててもやっぱり、作品 AND ごみ みたいに今まで考えてた問題がでてくる。
作品を売らなかった太郎にとってできあがった作品とはなんだったのか?
芸術は爆発→核廃棄物→処理場 (てつオ)
「何も作らない事を作る」 (てつオ)
これは、噴水広場についての酒井先生の言葉で、重要なキーワード。太郎は沖縄の御嶽について、「なにもなさ」に激しく感動していた。(沖縄文化論)。また、広島の平和公園を何もない広場にすべきと書いていた。
空き地、つくるとは何か、自然と文化、空き地化
自然って何だろう?
この考え方で、太郎美術館をつくったらどうなっただろう。
晩年の太郎がなぜあんなにテレビに出たのかについて。(てつオ) 太郎なりのポップアートの消化のしかたではなかったか。
自らが記号になるという事。三島由起夫。
太 郎は、わざとらしさを嫌い、芸術(つくること)を自然に属するものとした。一見、自然とはなれたポップアートに、現代の自然を感知して、それを否定しな かった。マクルーハンについて。そして、作品においてポップアートに太郎は、決定的にじだいおくれにされた、と感じたのではないか。ポップアートは、なる べく何もしない事をする、ということであり、ゴミのリサイクルでもある。つくる←→つくらない、という対立で、徹底的につくるに肩入した太郎より、対立を こえた「何もしない事をする」という方に時代の必然性があった。60年代 vs 90年代 (恭平)
また、太郎の作品は「毎度おなじみの爆発」、つまり「爆発のイメージ」を描いている。それは、外からの視線(鑑賞者などの視線、美術論)から作るという事で、太郎作品の分かりやすさはそこのある。しかし、それは自身の言葉に反するような奇妙な中途半端なポップさである。
そこで、しだいに晩年の太郎は作品をつくら(つくれ)なくなり、あのおおげさなきまったポーズや言葉をテレビでくりかえすという「なにもしないことをす る」という方にシフトした、せざるえなかったのではないだろか?で、そこが一番美術界が無視しようとして、でも一番太郎の面白いところではないだろうか。
耳だれサイトウシンさらばライブ at 向ヶ丘ゆうえん駅前
わたしは太郎の面と「岡本太郎美術館はごみ処理場だ」という札をさげる。TARO IS BACK という曲をたくさんやる。そして太郎 is オールバック。
残してきたことが気になって旅に集中できなくて残念。帰るということのない旅でもいい。ごみというのはぐっとくる。自分の作品がごみといわれたらどうする。
わたしたちは、さらば、が苦手かも
とうとう2人になってしまった。風呂にいく。
9月19日、生田緑地
今日は酒井さんの家にお邪魔する日だ。久しぶりの晴。
テントはってて、全然注意されない。今日はじめて、火をつかわないでください、と注意されたくらい。ここにも、酒井さん(教授)のいう、なにもつくらないものをつくるというのが生きてる感じがする。サイトウさん来て、
9月20日、生田緑地
今日はゆっくりする日にしよう、とてつオと話す。
「岡本太郎美術館はごみ処理場だ」という段ボールの看板を木にさげてみる。
夕食時、今日のごはんはゴーヤーチャンプルとなめこの味噌汁、てつオと話す。
政治は問題をつまんなくすると思って避けてきたけど、昨日のデモや恭平の看板は新鮮な感じがする、とてつオ。
わたしはてつオより政治的な感じはなれていて、看板なんか慣れてる。政治がつまんなくするってことはあるなあ。また相手が大きかったり、見えなかったりす ると無礼になったり、ちょっとあの看板は無礼か。あまり私たちがここで政治をする必然性はない。「岡本太郎美術館はごみ処理場だ」というのはスローガンで なく、単に感想である。「岡本太郎美術館はごみ処理場みたいだと思いました」というのが正しい看板かも、となった。
わたしが期待してるのは何かちょっかいを出すことで何も見えないboxである美術館から反応がないかな、ということ。美術館の人とも知りあえたら面白い、だってテントのちょっと先のみちは美術館への通勤路なのですから。
夜、何人かに電話をしようとした。
9月21日、生田緑地
今日は雨、 ここにあるプラネタリュム、20年前小学生のとき来て、入場料100円、その時の記憶ガよみがえってくる。客、他もう一組、名曲喫茶のようなかんじ、とてもよい。
銭湯に入っていろいろ考える、美術館をつまらないものと最初からみてしまったけど、面白いともいえるかも、だって岡本太郎をまったく無視してる感じなの だ。彼の思想を対極主義という言葉で代表させるとするとまったくそれが反映されていない。美術館はなんか普通でそこに主張があるとしたら目立たないように する、それはまわりの緑との調和ということかもしれないが。(調和ってそんなものかとも思う。)中途半端に太郎に迎合することなく、ことごとく太郎の思想 を無視してるこの美術館は現在における太郎の芸術の立つ位置を正確に示しているのかもしれない。てつオ曰く、この美術館で太郎はとどめを刺された。
9月22日、生田緑地
今日も雨
図書館にいく。
岡本美術館に関する市民主催の公開討論会の資料などある。太郎の生家にちかい溝の口のあたりで誘致運動があったり、川崎港に造れという意見、結局なぜ生田緑地になったかは不透明。
太郎とパブリックアート
9月23日、生田緑地
「今日はいい天気」
ここに来てからの感想や考えたことを書いてまわりにぶら下げよう、これは前から言ってたのだけど、雨でできなかった。
「この噴水はTAROっぽい」(噴水に)
「岡本太郎はポップスター
こ の下のポスターのように、問題なのは作品でなく太郎の顔(ポーズ)なのだ。それが、追いつめられたポップアーチストとしての、パブリックアートとしての、 太郎の到達点である。TVに出ていた岡本太郎、それが岡本芸術の頂点であり、一番面白いところなのだと思う。」(美術館のポスターの隣に)
「何もないものをつくる(白墨にて地面に)
この噴水広場についての理念。(住民自治のもと百年何もしない広場)。これは面白いと思った。何も造らないからこそ、色々な考え、行動、を許容することが 出来る。そして、実際ここはそういう場所になっているなぁ、と思う。「ものを作らないということもまたどの位人間的であり、文化であるかを強調したいの だ」(岡本太郎、沖縄文化論)」
「永久に保存したいとか、コレクションしておこうなどという、いわゆる「作品」ものへの執着はまったく持っていなかったのだ。これは芸術に対する態度として、まことに正しいと思う。」(岡本太郎、無いことの拡がり)(白墨にて地面に)
「酒井さんの似顔絵
100年広場の構想をねった東北大名誉教授酒井先生、あそびに行き話をきいた」
「酒井さんの妻とナメコの絵
酒井教授の妻の話
森の中でナメコを4.8kgもとった夜、ユメの中で、ナメコがうれしくてグルングルンした。」
「TARO美術館はゴミ処理場に似ている。」
「岡本太郎美術館はゴミ処理場だ。
売れないし捨てれない、保管もたいへん、そんなものを市長はもらったというが、おそらく税金対策かなにかで川崎市に捨てたのである。 その処理場が生田緑地の奥に目立たぬよう出来ている。そこには激しくぶつかるという太郎ばりの情熱や話し合おうという自治の精神はない。
そんなところへ、(うまくは出来ているがつまらないものー太郎が嫌った)世界的芸術家と権威(太郎が嫌った)づけられて作品がおさめられてしまう。対極主義としては面白い状況かもしれないが太郎はいない」
「太郎の写真
TARO is オールバック」
「太郎の対極主義は自然との共生をうたう90年代らしい美術館によって包み込まれ窒息させられているように見える。」
「一週間もいると自分の庭みたいだ」
「島の絵
図書館で岡本太郎の本を読んでいる時に、急に(実際いったことがない)こんな島へユメの中でよく行っている事をおもいだした。」
今日は祝日、美術館関係者はいなさそうだが、いろんな人があそびにきている(家族づれがおおい)。てつオが地面にチョークに字を書いてると、女の子が来て絵を描いてくれたみたい。
耳だれのちらしをみて駅前の劇団から
ちょうど役者が二人たりない、うちの芝居にでませんか、と電話。
9月24日、生田緑地ー和光大学
朝、雨が降っていない、早速、看板をさげてまわる。足早に美術館の人が何人か通りすぎる。遅れておじさんが話かけてくる、これ君がつくったの、沖縄文化論 よんだ?、と早口。こんなふうに若い人を動かすんだから岡本太郎はすごい。ポップスター?、こんど森村さんが太郎アイドル説というのを書くんだ。反対運動 に話がいくと批判的。オレは自然より赤提灯がすき。反対ばかり。裁判にすごい時間がかかる。裏に道がつくれない。街灯がない、(これは100年広場の考え がよく出てるとおもう)、だからうちの若い子なんて、おっさんにちょっかいだされるかもしれないから、 懐中電灯もってかえってる。
看板を一つ一つ見ていく、ちらしなどわたす。
村田だと最後に名をなのる。重役出勤してたし館長っぽい。
わたしとてつオ、にやにやする。
岡本美術館がゴミ処理場というのには、そうそう
美術館は岡本太郎の作品があるだけでなくそこで考え働く人がいるということ、なんにせよTAROを核にひとがいききするところが出来る事はいいことだなということ、に気付いた。
てつオーーいま、和光大学の入り口にテントを張ったのだが、2ヶ所候補地があって、でもおこられそうな目立つ方に張ることにしたのだが、その時、太郎の 「危険な方を選択するべき」という言葉おもいだした。太郎に触れるとこんなささいなところにも影響がでる。村田さんも語り口や態度に太郎の影響を感じた。
雨が降ってきて、あわてて、レストハウスに避難した。そこで、生田緑地を掃除する仕事をしているおじさん、おばさんと話をした。彼らの話だと、緑地には、 3・4人のホームレスの人が住んでいるという。 あああの人、と指さした人を見てみれば、ぼくらより身なりがきれい。塾の英語の採点をやりながら住んでいる人もいるとの事。レストハウスにも2年くらい寝 てばかりいる人が住みついていたという。美術館ができて、追い出されたのじゃないかと言っていた。今度きた時は、ホームレスの人と話してみようと思う。
劇団「月のひまわり」
太郎の影響といえば、「月とひまわり」の主催者もかなりの太郎ずきだった。いずれ岡本太郎の養女の敏子さに会いに行った時の事を芝居にしたいそうだ。劇団 と劇団の衝突、耳だれにしたら初めての出来事だ。ダイエーに待ちあわせたら、4人でやってきた。電話をくれた中本さんは19才で、いまどきの女の子という 感じ。団長はすこし太ったいわくあいそうな大黒様のような人。デンとかまえているが、あまり目をみようとしない。芝居は、彼の10行くらいの詩をもとにつ くるそうだ。(まずダンスをしてから芝居)。2がつにやる芝居の役者を探していたらしい。能を彼らも見たらしく、踊ってない人も一つ のリズムの中にいるのが、すごいと言っていてなるほどな、と思った。
そのご、恭平のいる生田緑地に皆でいく。そこで、1,2時間はなしこむ。すべてが、移り変わり消滅していく、それが虚しいから形に少しの間でもしたい、そ れが表現へ向かう動機だと団長はいっていた。団員はそんな団長に心酔してる感じだった。とにかく、いきなりそんな表現の話をしたりして、また役者のひとか らも話をきいたり、面白かった。
そして、いよいよ出発した。恭平が「まだ帰ってくる(美術館オープンの時)といってないから」というので、池のまわりを「耳だれisバック」の歌を歌いな がら回って、さあ出発した。ぼくは、自転車でクルクルまわって、恭平を待っているとき、町田君が「公園で休んでいても落ち着かない、決められたことをやっ ているような気分になる、自転車を漕いでいるときが一番いい、自由な感じがする」と言っていたのを思いだした。町田君も、スピードののろくさいぼくらを、 やたらに自転車をクルクル漕ぎながら待っていたものだ。その時は、体力があり余っているのだなぁとしか思わなかったのだが。いまは、少し分かる。
ラーメンをたべた。恭平はお腹がすくと、どうしようもなくなるようで、前の人が残していた、ラーメンのスープを飲んでいた。しゅっ中、菓子とか何か口にしていて、昔からこんなに食い意地がはっていただろうか?。見苦しい感じもするけど、世の中には空腹を我慢できない人もやっぱりいるのでしかたがない。
向ヶ丘は、酔っぱらった学生が多い街だった。おそらく、他に娯楽ややる事がないのだろう。
和光大学の校舎に入ると、小さな講堂で「第3回学祭会議」をやっていて、大変な熱気だ。「突然宇宙人の集会にまぎれこんだようだ」(恭 平)。現在学園祭の時に余りそうな教室をどうするかで、議論は行ったり来たり。何回か、次回に持ち越そうという提案がなされるもののすぐに蒸し返される。 もう千葉に帰れないという、人が次回に、といってもまだ続く。見ていて、面白かった。行くとこ、行くとこ、議論にぶつかるな、と思った。
9月25日、和光大学ー片瀬海岸
朝テントについて言われる。でもまあ
大学ももう慣れてしまう、のんびりしてる、食堂でTARO IS BACK のちらし作って、夕方出発
20 年ぶりの町田(小学校の時2年住んでた)、ゆたかというラーメン屋、てつオと二人であっという急に記憶がよみがえる、そこはお相撲さんの手形のたくさんあ るラーメン屋だった。てつオはいう、ラーメンの一番上にバターがのってて、それがとろーと溶けてる。たしかにそんなラーメンだった。
江の島までは川沿いのサイクリングロードとても気持ちよく江の島に夜の11時ごろ着く。場所と場所を繋ぐものって、電車とか道路だけど、川もとてもそういうものだと思った。たぶん昔はもっとそうだった。
9月26日、片瀬海岸
太陽の光で目が覚める。
2週間たったね
経ちました。思ったんだけど、恭平は今、黄緑色に凝っていますか?
そうかも。岸本という友人が黄緑とオレンジという組みあわせにことった事があって、それがポップだとおもってたことがあった。お金の計算がいいかげんだけど、それはどう?
別に、気にならない。そんな不公平でもないと思う。
泳ぐ、というより波にぶつかる。サーファーがいっぱい、
ここは秋を感じさせない(てつオ)
てつオ、耳だれとしか思えないものみつけた、という
聶耳という中国人作曲家の像、中国国歌をつくった人、ここで23歳で海水浴中に事故で死んだという。
一時、私は耳だれをはなれ、渋谷西武デパート屋上のコンビに会議、岡さんの誕生日会にいく。渋谷まで電車で1時間半。
9月29日
耳だれはまだ片瀬海岸にいて、この二日海で泳いでいたという事です。私は今、東京、だからなんていうんだっけ、閑話休題、って話を戻して本題にはいるときにつかうんですね、知らなかった。
自転車の話、私のはもともとは藤本姉が乗っていたチャリ、ヤオ・フジモトの家でなかば放置されてた、でも乗っていると調子いい、それもどんどん良くなる、 それはこんなとこ住めるか、っていうような空き家に住んでみると結構住め、家が生きかえるようなかんじ、だんだんいい家になっていく、というのに似て、な かなかうれしいことだ。
てつオの自転車は、島袋君が鹿をさがして、で乗っていたとても古いチャリ、自転車のかごに花をいっぱい載せ街中を走りまわって、彼は鹿をさがした。花見号。パンクしやすいのは、親切な自転車屋によると車輪の内部の錆が原因。
10月1日、片瀬海岸
今日も朝からいい天気、暑い、泳ぐ、
この5日間、どうでした?
泳ぐのが、気持ち良かった。まだ、生田の時のようなひっかかりは強く出来ていないな。ニエアルの事で何か出来るといいけど。恭平のいない間は、サイトウさんとあそんだり、自転車の修理をしたりしていた。あと、腰を痛めて、あんまり動けない時もあった。
腰?
泳いで冷やしたり、テント生活のせいかな。でも直った。
テントに「聶耳(ニエアル)についておしえて下さい」と貼ってあるのはいいと思う。
いいね。人もけっこう見てるよ。あと、聶耳公園にいるだけで人はみる。珍しいんだろうね。あそこは、波の音の中、と碑に書いてあるけど、実際は自動車の音の方が強い。昨日、献花してしばらくいた。ニエアルについて何かいいアイデアある?。
う~ん、まず、そう、聶耳(ニエアル)のどういうところがいいか教えてくれないか?
いや、耳だれだからというのが一番だ。耳だれ(who)?、ということだと、答えは聶耳(ニエアル)となるのかもしれない。これから調べるつもりだけど。 一つは、藤沢市民からはほとんど、つながりがない、記念碑というのが、耳だれに近いかもしれない。そこでどうするか、という事を聶耳(ニエアル)と共有し ているという気も。なんか、この浜はいろんな人がやってくるけど、お互いあまり関りを持っていないという印象があるんだな。
なるほど。それはずっとあるテーマかもなあ。こんにちわテントにしても、TARO IS BACK にしても。それでどうするか、聶耳(ニエアル)の場合とくにむずかしそう。まあ、てつオも言ってたけど音楽家どんな形であれ音楽会をしてみたい。
そうだね。そうだ。あのレリーフにしても厚いビニールがかかっていて、わりと象徴的だな。よく見えないもの。それと、やはり、太郎美術館にしても、ニエアルにしても政治レベルだけで話はすんでいて、例えば、在日中国人とかが関わっているようではない。
うん
最初は当然、藤沢の中国人とかが中心になって作ったのか、思った。
何回忌とかを中国の人が中国流にやるんだろうなあ、とおもった。
でも、そうじゃなくて、中国の政治家が箱根に遊びにくる、ということで、おお慌てで作ったようなんだな。(1954年)。その後は荒れ放題だったらしい。でまた、10年前くらいに現在の形に改築した。調べると面白い感じはする。
なるほど。さて、昨晩は酔っぱらった若いやつにテントやられて、災難だった。
ほんと、嫌になるね。テントに貼り紙をしたり、そもそもテントを張っていることへの、ネガティブな反応だけど。でも、相手は子供だったね。海に飛び込んだり、花火をしても、自分たちをもてあましてしまって、ちょっかいを出してきた感じだったから。
昨晩、てつオがいった、ニエアルの貼り紙に対するなんだっけ、なんとかといってたのが印象に残る。落ち着いていた。
今のところの数少ない直接的なものすごく直接的な反応にはちがいない。テントにダイビングしてきたんだから。彼らも、話してみると関わりを持ちたがってい る感じは強くした。でも、あんな形でしか表現できないんでは、ダメだね。自分たちの抱えているネガティブティをネガティブにしか表現できないんだから。こ の旅行も自分のネガティブティとの戦いという感じもある。そんなとこは、早くつぎへ行って、ぼーーとしたいけど、なかなか。岡本太郎に影響され、励まされ ている気もする。
うん、でも怒れない感じは兄弟にてると思った。テントのポールが曲がっている事に気付いて弁償してほしいといったら、オレたちやってないと最後、嘘ついて たけど、てつオは信じてもいい大人の感じでいったけど、どうか。嘘をつくとそれが自分にかえってきて、その嫌な気分の持っていきどころがない。私たちの嫌 な気分を彼らに渡しただけになる。
なるほど。嘘は最初からついてたけど。信じていい、というのは、嫌みだったかも。でも、ああいう場合、自分一人だったら、お互いの言う事が、平行せんだか ら、警察を呼ぶけど。少なくても、それを脅しにして、金をとる。実害があるわけだから。でも、恭平はそんな事、嫌かも、それだったら、そこまでするのもど うか、そもそも、ぼくのいつもの方法どう思う?
わからないな、う~ん、警察なんてあまり考えた事がない。怒ろうとか切れようと思うけど、できずに泣き寝入りというのがおおいような。ガキに対しては。大人に対してはいろいろ考えるだろうけど。
恭平の事もあったけど、警察を呼ぶのは、なんか違うな、と思ったのは、相手のネガティブティにたいして、脅すとか警察は、ネガティブに反応することで、彼 らと同じような事をしている事になる気がしたから。ぼくの最後の方の言葉は少しそういう感じで、彼らは、酔いざめが悪いだろう。それが、必要な場合もある だろうけど、耳だれでそれをするのは、ちがうなぁ、と思った。でも、ガキは傷ついている事自体に気付かないからなぁ。悪びれず、「朝鮮人みたいな事いう な。チョン。」とか女の子に言っていたし、それに似たところが彼らの行動に現れているよ。
なるほど、ガキは傷ついている事自体に気付かないか。さっき書いた事の補足。大人、ガキの世界ってわけたけど、ユーゴとか東チモールとかのことって、警察 というのが大人の世界としたらそういうのがなくなって、大人の世界がガキの世界になって、そこでの暴力、さいきんいろいろ考えます。大人の世界もガキの世 界も嫌。でも高校の時かな、あれってまわりをみわたすと何時の間にかみんな大人になってて、楽だなあ、とほっとした。警察って、大人の世界とガキの世界の 間にあるものかも、だから警察にいうのは一般てきだとおもう。
なるほどね。ぼくは、朝、テントを襲撃する少年たちとテントに住んでいた「鉄で出来た男」の話を書こうかなと思った。鉄で出来た男は、錆を落とすために旅 行している。これは、自転車の錆を(それでチューブを傷つけてパンクしていた)半日がかりで落とした経験が反映しているんだ。
曇ってきて、とてもおだやかな湘南の海。
10月2日、片瀬海岸ー鵠沼海岸
聶耳の日記よむ。死ぬ前日までつけてある、けど当然ながら死をかんじさせない、次の三ヶ月の目標で終わってる、そしてここにきてからは毎日海水浴をしている、女の人の観察に熱心。
一番面白かったのは、聶耳の着てた水着の話で、みんながあなたのことをみてるよ、それは女物の水着よ、と言われ、違うと強くいったものの、そういえば上海にいる時からこの水着には疑問を持っていたというくだりだ。前藤沢市長がファンだと書いているだけあって、人間の大きさを感じさせるひとだ。
聶耳の遊んだところ行ったところをたどるツアーをしたい。江の島の岩場に中国のなんとかよりすごいと感動してる。(てつオ)
テントが風で飛ぶ、聶耳公園の前の松の木の下に移動する、そこを日経トレンディーの人に取材される。よく笑う人たちで楽しい取材。
10月3日、鵠沼海岸
その場にいる事の面白さ
聶耳公園で耳だれ?の旗を作っていると、あのテント、君の?、聶耳の研究しているの?、日本人?私、中国人、そうか、ありがとう。私たち聶耳のお参りにきた、と早口。恰幅のいい、大学のときのある先生をおもいだすおじさん、と妻と息子、わたし興奮するが、何をしていいかわからない。うしろついて行って、記念撮影の手伝いをする。私も撮ってもらう。息子さんは留学生、今は横浜に住んでいて、この辺の海にはときどき来ます、という。ここにはどのくらいいるの?、またきます、という。写真と聶耳の資料を送ってあげるといってくださる、感謝して名をきくと、武さん、中国大使館の人だという。偉い人は話しかけてくる。話しかけるということをしてると偉くなるのかも。神長君(だめ連)もえらくなるのかな(てつオ)、とにかく初めて聶耳さんにお参りにくる人に出会え た。
てつオ、図書館でいろいろ調べてくる。一遍上人が気になる、藤沢は一遍上人の寺の門前町から始まったみたいで、駅のそばにそのお寺がある。一遍上人といえば、旅、踊り念仏、耳だれに通じるものがあるという。聶耳は21歳で中国共産党に入る、また映画音楽(聶耳が作曲した義勇軍行進曲、人民中国成立後、中国の国歌となる、ももとは映画の主題歌)を作るかたわら、映画にちょっと出たりもしてるらしい。
犬の散歩の人、話かけてくる。昔はここにはなくて荒れていた、たまに式典をやってる、中国の人がたまにお参りにくる、中国では英雄なのでは。
池沢さんとコアダさん来る。古い女物の水着もってきてくれる。
わたし東京に用事。こじま、マイアミ、さくらがテントをもってくると言っていたけど、どうなっただろう。すずしくなってきた。
10月6日、鵠沼海岸
三日ぶりに鵠沼海岸、江村さんとくる、彼女はひさしぶりの海に感動してた。夜、駅前のking of kingという屋台のようなレゲエバーに行く。道ばたに人がたまったりしていて気になっていた。年をとっても遊んでいる往年の太陽族?のような人がけっこういる。楽しい店、all 500円、マイヤーズどんとつぐ
10月7日、鵠沼海岸
体調はいかがですか?
体調、いいよ。でも、腰が少し。もう、7日か。そろそろ、いろんな知り合いが出来てきて、この町も重層的に見えてきたかな。役所、ホームレス、公園を掃除する人、オールドサーファー、暇な若者、犬の散歩する金持ち、中国人のやっている中華屋。やっぱり、1人とか2人じゃ、1ヶ月くらいいないとゆっくり何かするという風にはならないかも。とも思ったね。
笛はどのくらい練習を?
そんなに、たぶん延べ2,3時間。
葉山俊、前藤沢市長、いま民主党国会議員で、碑や本であつく聶耳を語る、私は聶耳研究家といわれているがそうではない、彼の一ファンなのである、とか。葉山さんに連絡をとりたいと思うがうまくいかない。
興楽園、っていう中華料理店にいく、そこで聶耳の歌を歌ってもらえた!そこは昨日のバーの隣、中国の人がやってて軒先で春巻など売っている。昨日、春巻を買いつつ聶耳のことをきいたときはちゃんと意図が伝わらなかったのだけど、今日またいこうと夕飯を食べに。
てつオが楽譜を見せつつ、何か知ってる歌はないですかときくと、これ、昔だったらうまく歌える、小学校の時よ、わたし40いくつだから、もう30年も前よ、とてもはずかしがりつつ、新聞売りの歌と義勇軍行進曲を歌ってくれる。新聞売りの歌はかわいい歌、中国語はメロディーにのるととても美しい。この人は もっとうまいという事で、厨房の人にも歌ってもらう。どうどうとした歌声。
中国では小学校の教科書にのってる。私の母親世代、70才くらいの 人なら聶耳の歌よくしってる。新聞売りの歌は、中国では日本と違って新聞は配達ではなく、町で娘さんとかが売り歩く、そのとき歌う歌みたい。
おばさんは日本にきて10年、はじめ横浜、そして最近、中国に帰った老夫婦のかわりにこの店を始めた、ということです。
聶耳音楽祭
10月11日(祝)、昼~日没
中国国歌(義勇軍行進曲)を作曲するなど、中国が生んだ偉大な作曲家、聶耳(ニルアル)。
若くして(23才!)藤沢・鵠沼海岸で溺死した彼に、たまたま近くにテントを張った劇団「耳だれ?」が思いをはせ、ささげる音楽祭。
場所:聶耳記念広場(引地川鵠沼橋たもと国道沿い)
交通:小田急鵠沼海岸駅徒歩5分
出演:小川てつオ、小川恭平、サイトウ、マイアミ、児嶋社長、ほか
参加者募集中!
詳しくは:09092014130小川てつオまで
10月8日、鵠沼海岸
聶耳情報(てつオ)。
聶耳は、少年時代にも溺れていた。友人の衣服番をするという事で、用水に行った聶耳。しかし、友人が泥にはまり、沈んでいってしまっ た。そこで、泳げない聶耳も飛び込み、同じように泥にはまった。沈んでいく2人。その時、たまたま通りかかった農夫に鍬をさし出され、一命をとりとめた。 聶耳は、約束を破り泳いだことを母親からこっぴどく叱られるが、詳しい話を聞くと母親はおそろしくなったのであった。この後、聶耳は水泳を習い得意になる。それが、災いしてか、10数年後湘南で、溺れ死んだ聶耳。農夫の鍬は二度目はなかった。水運が悪い人のようだ。
・ビック錠らと海で飲んだ
・イリヤ藤沢さんの事
・聶耳音楽祭
・聶耳音楽祭の反省
10月12日、鵠沼海岸
いい天気、いい天気。陽がのぼるとテントの中はすぐ暑くなる。日陰はすずしい、てつオがハワイアンぽく、鵠沼海岸の聶耳のうたを歌いだす。こう天気がいい とハワイアンの気持ちがわかる。大声でうたう気がしない。(てつオ)。それは今夜のパン屋の女の子たちのための公演で披露します。
海でおよぐ、いつまで泳げるのだろう。
穏やかだけど、たまに大きな波がくる。サーファーはぼおーと海にうかんでいるようにみえる。でもちがう、サーファーはずっと遠くを真剣にみて、どのうねりが大きな波になるのか、待っているのです。サーファーの気持ちが少しわかった。
熱海に着くまで(とても面白かった)
・くにさんの事
・小田原のこと
・高速のしたのクリスマスツリー
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10月15日、熱海、に着いてまず行ったのが駅前の観光ビルの地下の食堂、タクシーの運転手さんとか集まる店だ。そこで隣の席の通称、猫さんからふくちゃんの話を聞く。
駅前の居酒屋、養老の瀧があるだろ、夜中、裏から忍び込んで、そこに駅にいるホームレスたち、みんな招待して、宴会しちゃうんだからたまんねえよ。
みかん畑いってみかんかっぱらってきて、駅で売っちゃう。
一度なんとか屋っていうスーパーにたのみこんで就職したんだよ、店番してんだろ、オレが店番してるんだからお金はいらねえって、お客になんでもあげちゃう、それじゃ主はたまんねえよ
こんなヤツいたらたまんないから、京都に送り返そうってんでオレ、京都までの切符買ってやって送り出したかと思ったら、またやあって顔だしやがって、切符、払いもどして自分の金にしてやがんだからな。
ここの店のおばちゃんも福ちゃんにやられた口らしく、お金ない時はこのカウンターでおいおい泣くの、しょうがないからお金あげちゃうのよね。
いまはどうしてんですか?さあ京都にもどったきりわからない、死んでんじゃねえか。
いろいろ福ちゃんの話で盛りあがった、猫さんのとなりのおっさんもとぼけたかんじの相の手をいれ、猫さんの話は絶好調。
お宮の松についても教えてくれた。そう、調子が悪いから初島までいって療養してる、もう帰ってるかもしれないけど。えっ松が?
待望の温泉に入って、お宮の松を探しに行く。
二人でながくいるせいか、次何するかとか細かいところで意見があいにくくなってる、片方元気だと、もう片方元気がないとか。文句を言っても、結局てつオの 言うのに従っているような気がするのは、この耳だれ?という作品の責任をてつオがとろうとしてる、わたしは適当にいってて、まあ楽をしようとしてるという のもあるかなと思う。そしてパソコンが調子悪くなって私も調子悪くなったというのは、この日記の責任は私がとろうとしてて、それがなくなって何をやったら いいのかということか。責任なんて嫌な言葉が出てきてしまうなあ。
私が耳だれ?にあまり責任をとろうとしてない感じ(でもTARO IS BACKにはかんじる)については考えないといけない。
海岸をけっこう探して、お宮の松みつかる。しかし2代目?。こぶりでがっちりしてる。てつオの描いてた松の像とはかなり違ったようだ。この松にむかっては泣けないぜ。
サンビーチにテントをはる。
10月16日、熱海サンビーチ
熱海について
熱海は江戸っ子の街。地元の人は会う人、会う人がべらんめえ調で、早口。公衆浴場で会ったおやじいうには、向こう3軒両隣てめえの親ばかりが親じゃねえっ て育てられたから、という、明日の町内の運動会について語った。熱海はもともとなんもなかったところに、尾崎紅葉のお宮と貫一の話と東海道線のトンネル開通で一気に盛りあがって街になったらしい。そのとき一山あてようと東京から移りすんだのかな。東京ですたれた江戸文化がここに息づいている。
熱海はがんばっている。先週は徳川のなんとかがお湯を取りにきたか何かにちなんだお祭り。今週は英国大使か誰かが飼っていた犬を熱海市民が助けたことにちなんだお祭り。来週は港の方にあるサンレモ公園でサンレモ祭り。夏、冬にそれぞれ5・6回も花火大会をする。
熱海はさびれている。大きなホテルがバタバタつぶれていてそのまま放置されてる。
熱海は箱庭みたいな街。すきまなく作っていったんだけど、気付いたらみんな空き地になってしまった。(てつオ)
耳だれ?がたどり着いたのが、熱海なのは象徴的だ。
見番というところに芸者さんのをどりを見に行く。わーと派手でにこにこしてしまう。京都のそれとは違って、勢いがあって江戸っぽい。
お祭りはタダで干物が食えたりと得。それだけに観光客より地元の人が多い。メインは抽選で選ばれた二人の結婚式をして熱海をあげて祝うというもの。
10月17日、熱海サンビーチ
朝、おまわりさんに起こされる。身元をきかれて、困るよということだっだけど、出ていけということではないみたい。
道端に温泉のお湯がためてあるところがあって、(7ヶ所あって、熱海7湯のスタンプラリーになってる)、そこで卵をゆで、温泉卵として売ってみる。これは 福ちゃんの影響もある、でもあともうひとつということで、てつオ提案で、卵にお宮と貫一の絵を描いて、お宮の卵 といって売る。道をはさんで向こうのおみやげ屋は道に3人おばちゃんが立って呼び込みが激しい。しかし人通りが少ないので暇そう。わたしたちが店を始める と興味津々のようす、50円で売れと合図を送ってくる。隣のおみやげ屋の人も視察にやってくる。 前の道に椅子ひとつで旅館の案内をしてるおやっさんもこうしたら売れるとアドバイスをくれる。
結局20こ完売+掛川のバスの運転手さんの千円カンパ。
明日はお客さんに卵をもたせて卵で寛一お宮の芝居をしたい。(てつオ)
熱海ビエンナーレをみにいく。お宮の松のところから上っていくと両側はつぶれたホテル、また上がっていろいろ行くと、元別荘の廃墟あってそれが会場のひとつだった。
このあたりは廃墟がおおく、地形がいりくみ探検をしてるよう。
わたしはパソコンを直しに東京に行く。
てつオの日記より
おばさんと一緒に作品を見てまわったのは面白かった。
一人で見るよりずっと新鮮に作品を見ることができた。というか一人でみても、「ああ、あれね」という感じで、手の内のほうがすけてみえるかんじで、あんまり作品を見るという態度にならない。でも、おばさんと一緒だと、「作品」をまともに見るというかんじでいろんな発見があった。たとえば、ある人の作品は、 どこかが全部欠けていることがわかったりした。おばさんの価値判断は的確で、まず実用性があるか(主婦としてといってた)、実用性がないなら、美術品として高い値がつくか、次に美術品として美しいか、という順番である。だから「ガラクタの中にガラクタがある」といっていた。
「これはプラスチックよりガラスじゃなきゃ価値がない」とか、一円玉の作品は、えーお金を(粗末にしちゃいけない)というかんじ。でも、タイルになるわ ね、とか。「ここに竹の子を取りに来たらいいのに。」「タンスはベニアになってダメになった。」「ブリキはこうすれば作品になる、柄が参考になる。」「これ、シンボルよね。失礼だと思って言わなかったけど。もう卒業。「なつかしいわね、このおけ。こういうので洗濯してたのよ。」うーん、実に的確に自分の視点からみている。それでいて好奇心を失ってはいない。ぼくは面白かったけど、それだけじゃなくもっと自分の意見もぶつけてみればもっと面白かっただろう。 他人の作品を勝手にガイドするというのがとてもいい感じだ。
10月21日、熱海サンビーチ
東京・青山のワタリウム美術館に島袋君の参加してる展覧会を見に行くと、いないと思っていた島袋君にばったり会う。もうすぐブラジルへ、一年いるという。
ワタリさんを紹介してもらう。そう、岡本敏子さんと話をしたという。TAROの養女、秘書、とにかくTARO美術館問題では一番のキーパーソン、「太郎に乾杯」という本を著している、耳だれ?としてとても気になっていた人だ。
川崎市のパンフレットの対談ではTARO美術館を喜んでいるようだったけど、そうでもないらしい。生田ではなんとなく悪い印象で思っていたのだが、そうでもないみたい。ぜひあって話をききたい。
何日かぶりの熱海、やっぱりさびれた感じで、それはやっぱりさびしいというか、そう昔はこうだったという話がおおくなってしまう。
おそくつきてつオは寝ていた。
10月22日、熱海サンビーチ
最近はどうでした?
今は、下痢気味です。昨日は、海で泳いだよ。最高。そして、一昨日の朝、泳いだあたりで(テントの前)70歳くらいの老婆の溺死体があがった。朝4時くら いに発見されたらしく、遺体はみてないけど。そんな事は、まるで痕跡もすぐになくなって、観光地としてのイメージにマイナスのせいかな、と思った。あと、 もちろん「お宮のタマゴ」売り。昨日は、9個一昨日は、8個、その前は、4個売れた。カンパも、1080円と酒。芝居(金色夜叉)は、卵を買ってくれた人 から主に聞いてやっているのだけど、昔、寛一役をやった人とかいて、だんだん形になってきたかも。20人くらいの団体を前にやった時は興奮した。でも、人 どおりもあんまりないし、けっこうボケーと暇な感じ。笛とか吹いていて、そんな感じが、前の土産物屋や観光案内所のおじさんと空間を共有している感じ。で も、そんな空間を観光地として衰退している熱海の人たちはどこか、嫌、というか、危機感を感じている様子もある。海岸のホームレスの人としゃべった。熱海 ビエンナーレ(主催の汝さんはGOOD)をやっている人たちとも知りあった。この熱海の衰退、空き地にたいして、いろんな人が反応していて、面白い。あ と、小原さんという女の人とテントで酒をのんだりして楽しかった。旅してて女の人と親しくなるって滅多にないことだ。
10月23日、熱海ー小田原、酒匂川
お宮の卵、終わってどうですか?
いやぁ、最後が良くて、すっきりしたって感じです。
警官も含め、一とおり来たな。卵も最後完売したし、ビデオにも記録してもらえたし、あそこに無為に過ごした時間も良かったが、それだけに感慨があったよ。芝居も最後にやれたし。恭平は?
うん、いや自分じゃ何も知らない話をいろいろな人から教えてもらってそれをつなぎ合わせて芝居にする、これが面白かった。昭和の初めか、明治40年頃で話始まるのだもの。
そうだね。そうそう。熱海の印象は変わりましたか?
うん、ホテルがたくさんつぶれてるなんて知らなかった、ふるいところも面白いし、ちょっと住んでみたい。熱海ビエンナーレの人と知りあえてよかった。
ぼくは、観光案内所や土産物やのおばさんたちの反応がつめたくなったのが、印象深かった。熱海の印象として。
いや、そうそう、それはとても気になった、それをもっと考え、そこから何かできたら良かったと思うのだよ。
ああそうだね。あれは、でもさびしかったな。何時間もあそこにいると、それが骨身にしみたな。でも、人としりあっていく感じとか、それで作品が出来ていく感じを、ライブで見せながらやる、けっこう面白かったし、耳だれも成長したな。(湯河原・童子にて)
来た道を戻ることにする。行きに会った人に挨拶していこう、とおもう、面白いと思うのだけど、少し気恥ずかしい感じもある。どうしてだろう、童子のおやじ、たった10日ぶりだものな。
記憶をたどる感じ。
10月24日、小田原ー鵠沼海岸
10月25日、鵠沼海岸ー町田、芹沢公園
10月26日、町田ー生田緑地
町田に来て昔の、20年前小学生の時の記憶が次々よみがえる。昔の家のあったところに来てみるとあまり変わっていない、住んでた家もあった。すぐ下の家にてつオと同級生の女の子がいた。今、てつオは彼女に手紙を書いてる。当時、ラブレターをもらったことがあるという。
今 日は朝6時に警備の人にたたき起こされた、本当にたたきおこす、というふう。起こし方にもいろいろなものが反映する、つまりそれは「ホームレス」の人に対 する起こされ方で起こされたということ。私たちはキャンパーとホームレスの中間、そしてキャンパーと認識されるかホームレスと認識されるかで対応は違う。 発想としてはキャンパーに近かったかもしれないが、テントをはるところはホームレスに近い(てつオ)。そして同じところに居れば居るほどホームレスに近づ く。3週間いた鵠沼海岸ではホームレスの人々との交流も増え、だんだん鵠沼海岸のホームレス社会の一員としてむかいいれられるふうだった。
私たち二人、だんだん汚くなってきて、二人の格好も似てきた。そして、てつオの体重が増え、わたしの体重が減ってる。つまり、やせていたてつオが肉付きがよくなり、私のたるんだかんじが減ってる。道理で双子?とか言われたりすることが増えたわけだ。
久しぶりの生田緑地、あんまりかわってないかんじ。
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母の塔はロケット、美術館は宇宙基地、太郎はロケットのデザインとかしてみたかったにちがいない。(てつオ)
美術館の別の利用の方法を考えるのも面白い。コンビニ会議で考えた空き地化ということ(てつオ)
ここ四日がんばって自転車に乗って疲れた。
10月27日、生田緑地
一ヶ月前よりもっと目立つところにテントを移す。道から声をかけられるところ、鵠沼海岸のときとおなじかんじだ。
酒井さんと待ち合わせ、にんじん(てつオお気に入りの食堂、おいしい)でおごってもらう。いろいろその後の話を聞く。生田の自然を守る会として、29日のセレモニーの日と30日の開館の日にビラをくばったり、パネルを展示したり、基本的にはでたとこ勝負(酒井さん)
今後、美術館とどうつきあっていくかも考えていて、酒井さんの視野の広さをかんじる。
10月28日、生田緑地
母の塔ロケットと赤ちょうちんをすることに。
10月29日、生田緑地
今日はセレモニー、太鼓の音、午前中は偉い人がくる、守る会は横断幕とビラくばり、市長は裏道からこっそりきたらしい。午後は美術関係者とか、アラーキーにビラを渡したりした。アラーキーはアラーキーの格好をしてて、私、にやにやしてしまった
てつオに私が守る会のちらしを一緒に渡したりしてた事について異論をいわれた。そのちらしは今の裁判の争点てある、市のアセスのがれという点を批判したもの。
つなぐ事をしたい、あのちらしはつながるというがんじというか話をしようというかんじがうすい。だから私たちのしたいこととはちがっていて。でもこういう意見もあるということで事情のしらなさそうな美術関係者に渡したいかんじもあった。
10月30日、生田緑地
今日の母の塔ロケットは楽しかった。
神戸さんと井上さんが来てくれた。そこにいた3人、親子づれとしゃっりとした青年もつれて出発。てつオが紙粘土でつくった母の塔にそれぞれ粘土の人形をつけて発射。美術館の入り口でたぬきの面をつけビラを配っていた守る会の志村さんも乗ってくれた。
志村さんの話、これからは冬鳥の季節、渡り鳥たちがやってきて、一年ぶりの再会、ちょこんととまっていたり、その出会いがうれしくて、朝、いてもたってもいられない。
野鳥観察の喜びってそいうとこにもあったのかとおもった。
街灯のこと、
街灯があるっていうことが自然にとってしんどいということ、街灯がないっていうことが美術館にとってしんどいということ、それがなかなか伝わらないかんじ。
ロケットは生田緑地のいいところをまわってプラネタリュームへ。
ロケットは最初てつオからきいたとき、酒井さんが乗れないんじゃないかと思ってどうか、と思ったんだけど、生田緑地のツアーはやってみたかったし、ロケットとジャンプした感じがいい。
赤ちょうちんは神戸さんと金沢からきてる男の子とバンドやってる女の子のカップルと強烈なおやじ。彼の話をきく会になった。
10月31日、生田緑地
「赤ちょうちん
昼は世界であり、夜は宇宙だ。(TARO)
新しく街灯ができました。しかし、7時には消えてしまいます。最初、生田緑地にきて、一つ気付いたのは、街灯がないこと、夜の闇、月が出れば月に支配されるところ。その後、それはここを、何もないものをつくる/自然公園にする、という考えがあっての事と知りました。
しかし、新しく美術館ができたのです。美術館で働いている方が、帰り道真っ暗で危険で困ってるという話を聞きました。
新しく出来た街灯はそんなに明るくなく、早い時間に消えるなど配慮のあるものだと思います。そんな街灯が消えると、太郎のこだわった夜の闇がやってきます。その夜の闇の中で太郎の芸術や生田の自然について話たり考えたりしてみたいです。」
夜、学芸員の大杉さんがきてくれた。この仕事は4年、その前は中学校の美術の先生、つくるのではなくて壊すというの も大事ということで壊す事をテーマにした授業とか、点数は生徒に自分でつけさせた、とか面白い。大杉さんに招待してもらって家にいく。
岡本太郎にもう4年もつきあってるんですねときくと、まだまだという、そして「太郎さん」と愛情をこめて呼ぶ。TARO IS BACK のポスターは大杉さんが中心になって作ったらしい。あのポスターには大杉さんの太郎に対する愛がこもっていたんだな。TARO IS BACK(太郎が帰ってきた)、それが私たちをひきつけたのかもしれない。
久しぶりの家の中は、そわそわ落ち着かなかった。厚い壁で、外と隔離された感じが強くした。(てつオ)
11月1日、生田緑地
今日は、美術館もプラネタリュームもわたしたちもお休み。
午後、このダンロップのテントはってる人始めてみた、と丸がりで大きくてにこにこした人が話しかけてきた。彼は生田緑地にきて二ヶ月、東屋の下にブルー シートで住んでるおじさんの隣にテントはらしてもらってる、島根から東京まで歩いてきたという。夏、途中でお金がなくなって畑からスイカをとって食べたり したという。アウトドア用品にやたらと詳しい。彼らの家に行く。すぐ近くだが風光めいび。
(後日、話をした。今は家庭教師!を週2回してて、それでお金が溜まってきた、暖かくなってきたらまた歩いて島根へ、離婚を契機に仕事もやめた、自分はこんなに自由だったんだと思った。)
11月2日、生田緑地
母の塔ロケット
昼11時、母の塔の前に行った時笑ってしまった。ぼくの他に親子づれが1組いるだけなのだ。月のひまわりの山吹さんが顔をのぞかせる。遠足の子供たちが、とり囲む。
今日は、出発出来ないか、とあきらめ感の漂った2時ごろ、とてもたのしげな親子づれが、やってくる。気持ちよく笑う面白がりなお父さん、しっとりと面白がりなお母さん、ちょっとひねくれた感じの長男(6歳)、うれしそうな次男、まだよちよちの赤ん坊。
この5人を乗せて出発だ。まず、美術館のカフェそして、書籍売り場を通る。乗客のノリがいいからロケットは快調。(長男は、いつ飛ぶんだよおれたちはガキじゃないんだガキの遊びにつきあわせるな、なんて渋い発言)。
次男の「きつい方がいい」との意見で、枡形山にむかう。初めの登りでお母さんはバテ気味。夫婦は、建築家で荒川修作の「養老天命反転地」を一緒に設計したとの事。ぼくたちコンペイトウを機内食として配布。が、去年関わった「建築等学会」も当然のように知っていた。
そこから、民芸館により、時間がないので、谷間のアップダウンのきつい道は行かずに、枡形山に向かう。次男にロケットを持ってもらう。この道行きは歌など も歌い楽しかった。展望台へのエスカレーターの中では、お父さんがコンペイトウを機内食として配布。それからは、慌ただしかった。プラネタリウムの時間が 迫っていたのだ。走ることに。ロケットぽい。お母さんたちは遅れたが、でも無事に全員宇宙に到着。始まる前プラネタリウムの中をぐるぐるまわりながら、す ごくぴったりな事に気付く。母の塔ロケットもプラレタリウムも「嘘っこ」で実物よりずっと小さく想像力の中にある。
記念写真を撮って、慌ただしくお別れ。(長男は、いつ飛んだんだよ)。親子は、民家園へとむかった。
おねがい~建築家夫婦へ。よかったら、連絡をください。展示で写真を使いたいのです。よろしく。
11月3日、生田緑地
いよいよ、今日でTARO IS BACKはおわり。朝8時。朝食の準備をしているところ。昨日の夜、赤ちょうちんをやっている間に、母の塔ロケット(3号)が消えてしまって、探してもな くって、これは宇宙に行ったのかな、とおもっていたら、そうではなくて、さっき、10Mほど離れた植え込みに、落ちていた。なぜ…、見ると胴体がえぐれて いる。 そして、煮干しがない(ロケットにはいつもにぼしも同乗している。)、猫。猫。猫。
今、副館長の北条さんが、自分でつくった野菜、梅干し、粕漬けをもってきてくれた。どれもうまそう。うれしい。
このように、生田の自然を守る会の人たちからも、美術館の 人たちからも、大切にされている感じ、うれしいけど、どこかいごごちの悪いかんじもする。(てつオ)
母の塔ロケット
だんだん母の塔ロケットが、上達してきた。毎回作っているので4機目。休日だっていうのに、なかなか乗客はいない。やはり、3時間という長さに無理があるのか。
一度、時間がないから、と立ち去った女の子が戻ってくる。「やっぱり気になって。」。再び、沢井君も登場。今日は、この二人を搭乗して、出発。
タイコがドンドン鳴り響く。美術館も民家園もタイコを鳴らしている。女の子にロケットを持ってもらう。芝生広場で、機内食。おもしろーい、と女の子。
お願いーー女の子へと沢井君へ。連絡先を紛失しました。よろしければ、連絡ください。
女の子は、近くの日本女子大の学生だった。展望台で、お茶を沸かして飲む。また、時間がなくなり、走るハメに。でも、走るのは面白い。全員無事に宇宙に到着。プラネタリウムのナレーションが、おじいさんでやはり上手。入れ歯の音まで味がある。
このプラネタリウムは素晴らしい。ずっと、生でナレーションが入って、まさに宇宙に誘われるという感じ。毎月内容が変わり、5人いるナレーターによっても また雰囲気がちがう。6回も見ているが、暗闇がふかまり、満天に星が現れると息を飲む。今月は「空からの贈り物」、隕石の話が中心だ。岡本太郎が死んだ日 たくさんの隕石が落ちたことが、母の塔ロケットの話の導入なので、われわれにとってもタイムリーだ。そして、やさしい声に眠気を誘われ、「おはようござい ます」とのアナウンスで朝日とともに目覚める。こうして、宇宙どころか、夢の中までへも、我々は旅立ったのだ。
11月4日、生田緑地
疲れがでたのか、銭湯に3時間くらいグデ。前述のいごごちの悪い感じというのは、正確じゃないから、消そうと思っていた。銭湯の中で、考えたこと。
生田の自然を守る会の人や美術館の人と話す時、これを話していいのかな、と考えていることが多い。いろいろ話しを聞いて、お互いの内情にかなりくわしく なっているのだ。それで、この話は、相手には秘密なんだけど、なんて話もある。それを聞くのは面白い。本音だし、ぼくらが立っている場所が、中間的だとい う事をそれはよく現してもいるから。
大人というのは、話して良いことと悪いことを判断できて、しかも話している相手との関係の中に、話を翻訳できること。それが、少し息苦しいのだ、と思っていたのだが、それだけではない感じがする。
芸術は、つながりそうにない「何か」と「何か」をつなぐことで、しかも想像力を使ってつなぐことだ。耳だれ?のやりたいことはそういう事ではないのか。
ぼくは、一つの「何か」の中で生きようとしている人が怖いことがある。「何か」をまもるために、ひどい事をすることがあるから。また、そういう自分もいる。一つの世界に生きるより、複数の世界で生きたほうがいい。
守る会の人も美術館の人も、当たり前だけど、複数の世界に生きていて、垣間みたそれらが、とても魅力的だったのだ。学芸員の大杉さんの以前中学の美術教師 だったころの授業の話、守る会の江田さんの恋人と沖縄で暮らしてた話、コレクティブハウスでの共同生活の夢、副館長の北条さんの今たべた自家製の野菜の話、そして酒井さんは恭平もいうように幅広い視線を持ったひとだ。
ぼくは、作品を作る、ということがかなり大切で、一番大切かもしれない。しかし、それが一つの世界に生きる、ということになってはいないだろうか。恭平から、耳だれ?で、ぼくが作品にしようとしすぎているのでは、言われたことがあった。今回の場合だと、守る会と美術館(生田緑地と岡本太郎)をつなぐということに、こだわりすぎだったのかもしれない。つなぐには、両者の中間に立たなくてはならなくて、恭平が、守る会のチラシを説明もなしに配っているのはどうか、と思ったのにはそういう理由もあった。しかし、どちらの立場にも立たないというのも一つの立場であり、一つの立場、世界に固執する時、「政治」が発生して、息苦しくなる。政治的な場(なんといっても、守る会と美術館の持ち主である川崎市はアセス条例違反を巡って裁判中なのだ、その上北条氏の議会での虚偽証言の問題、会計監査請求)で、非政治的にふるまうはずなのに、アレレという感じ。
しかし、生田で、けっこう面白いなぁ、と思ったのも「政治」だった。市民運動のデモに参加したりして、それはぼくにとっては新鮮な体験だった。また、一歩踏み込むと政治といっても、様々な表情があった。本音と建前、建前上いえない本音が仕事に微妙に反映されていたり、取り引きやかけ引き、「男の約束」なんていうのも大きな要素だったり。はじめ、守る会と共産党市議員の館内視察に同行させてもらった帰りに雨が降ってきた時、あわてて美術館がタクシーの手配した、その時驚いたのだけど、表面に現れている程単純なものではない事がわかった。複雑怪奇といってもいい。副館長の北条さんと江田さんたちは、アパルトヘイト・ノン展を共にやったりして、もとは仲間といってもいい関係だったらしい。行政の内部でも、決して一枚岩的に推進したわけではない、と聞いた。酒井さんたちと「なにも作らないことをする」という提案をまとめた公園管理事務所や環境保全局と無理を押しても作ろうとする市長、教育委員会。当然、美術館の学芸員の立場はまた異なる。そしてまた、太郎の名プロデュサーとして美術館に大きな影響力を持つ養女の岡本敏子さん。(現美術館顧問)。様々な立場のねじれ やゆがみの中で、自分のスジを通そうと苦心している人たちは、思った以上明朗で生き生きしていた。と同時にやはり、美術館にしろ守る会にしろ、この問題に対してそこにいる人たちの多彩さをきちんと反映しているかといえば、やはり一枚岩に見えるようにしている。そういう力が働くのが「政治」のつまらないところ、嫌なところだ。(守る会の江田さんは、一枚岩に進める運動のやり方に疑問を持って今の活動している、と話していたけど)。
ぼくたちは、つなぐ、という「耳だれ?」の立場を、新しい立場として付け加え、そこに属したかったのだろうか。想像力は、何に属しているのだろうか。ぼくが、思うに想像力は、「空き地」に属している。それは、属することの外へと出ていくことだ。
で、問題は本当はここから始まる。想像力は透明だけど、人間は透明にはなれない。身体が、そこには残っている。創造するとは、想像力と身体を結ぶ行為だ。母の塔ロケットをつくり飛ばすこと、おでんの材料を買い煮込むこと、創造とはそういうこと。
そこで、もう一度、属する、という事について再考すべきだ。でも、ここから先は考え中、もうのぼせた。
(てつオ)
母の塔について
だんだん、面白い美術館なのでは、という気もしてきたんですよ、例えば屋上にはここがもと草地だった事を配慮して草を植えてある。母の塔、1970年当時の太郎の最初の草案ではアフリカに、しかも百何十mのものを、だったらしい。確かに、母の塔の足元にキリンがたわむれていたりするのを想像するのは楽しい、しかし、アフリカのどこにだったのだろうか。また美術館の最初の頃の計画では、おおきな母の塔を作ってその中を美術館にするというのもあったらしい。 それは太郎っぽい。
でも、いま、太郎っぽい(っぽい、も曲者だなあ)ものをつくってどうするんだろう、やっぱりどうするんだろうとかおもってしまう(必然性がない)、またてつオがいうように太郎美術館、どこにつくっても何かしらの問題が起きたろう。
2点
・TAROは暴力をどう考えたか
・TAROは内からか、外からか、なんらかの必然性で作品をつくっていたと思うけど、TAROがいないこともあって(例えば母の塔をつくる)必然性が見当たらない。
生田のTARO美術館が面白いのは、だれも建物に満足してない、そして、いままでの迂余曲折をあらわしてる、そんなに暴力的でない、暴力的にぶち壊してつくったというより、いろいろな声に耳を貸す姿勢は多少あったかもと感じさせる、もちろん、川崎市は一度あやまる必要はあるとおもうが、テーブルにつくという事はしてないけど、意見交換はたぶん多少されてて、母の塔の広場がわりと落ち着くのはその成果かもしれない、最初からどこかおかしくて、うまくいかなくて、うまくいかないところでいろいろあったりやったり、が面白い、ある人の設計図どおりうまくいった作品とかいうのよりね。わからないけど。
作品にするということについて
11月5日、生田緑地
夜、清野さんの家にいく。清野さんは、江の島に、取材にきたフリーライター。居候に来てくれ、と言われてて、下見をかねていった、予想外に時間がかかり、 着いた時は、いささか疲れ気味。庭つきの一軒屋。玄関を開けると、清野さんの後ろから男の子が顔を覗かせる。シンちゃんは、ウルトラマン好きの小学1年 生。かわいい利発そう。清野さんのカレーを食べる。うまい。シンちゃんとキョヘと3人で、風呂に。シンちゃんは、水中眼鏡を付けたり、水の中で回転したり、忙しい。風呂あがり、お父さんと話す。清野さんは、眠りに。おばあちゃんの気配はしない。お父さんが、家の外まで見送りにきてくれる。なんとなく奇妙な清野家だった。
11月6日、生田緑地ー新宿
11月7日
耳だれ?終わったね
終わりましたね。昨日、いいエンディングだった。新宿に入る前あたりから、恭平、興奮してなかった?。自転車の漕ぎ方がそんな感じだったぞ。
高いビルとネオン、うんよくわからんけど、東海道53次で江戸に帰ってきたというかんじ。昨日もシュラフだったけど、ふとんで寝たいね、シュラフだとまだ旅が続いてるかんじだ。(さいとうさん、シュラフかしてくれてあいがとう)
ぼくは、右翼の外宣カーから流れる軍歌を聞いた時、なんだか帰ってきたな、と思ったよ。
そして草加さんとかのパーティー、楽しかった。最後にビック錠があらわれて、
最初とはちがう場所で再会するのは、沢井くんもそうだったけど、長い旅行ならでは。もっと、つづければ、そういう事も増えていって、いまとは別の一つの生活の形(環)ができる、それがうっすら見えた気がした。
えっ、それはどんな?
耳だれ?としての生活が成り立つなぁ、ということ。経済的にはまだ道は遠いけど。
そうだね。テントもいいとおもった。
テントは膜だね。外界にヒリヒリ触れている。久しぶりに、大杉宅で家に泊まった時、テントよりずっと、広いのに閉ざされた感じが強くした。違和感があったなぁ。
うん、テントは膜か。
新しいテントは布地も薄いしさ。一緒にいて、気付いたことはいろいろあったけど、「忘れ物が呆れるくらい多い」「声が小さくて何度も聞き返さなくてはならない」「ため息をやたらにつく」という3点には驚いた。ぼくに対して何かある?
こんなに一緒にいたのは10年ぶりだったからね、あらためて似たとこがおおいと思ったよ。「人を待たせる」とか、これはわたしもおおいのだけど、あまり気付いてなかった。今まで、人をおこらしてなんでかわからなかったんだけど、てつオに待たされてイライラしてる自分がいて、そうかと思った。あと、てつオは 悪口をいわないね。
悪口か、それは意識してなかった。恭平をみて、ああそうか、と思うこともたしかにあった。なんか、文句言われている間は大丈夫と甘えているとこがあって、それで批判をちゃんと受け止めない、恭平にもそういうとこがありそうで、文句を言う気を失わせる。自分もそうであることに気付いた。最後のほうは、双子に 間違えられて。ため息も移ってきた。あと、耳だれ?の他のメンバーは、最初の1週間しかだれもこなかったね。ちょっぴりさびしい気もした。どう思う?
文句を言われている間は大丈夫と思っている、か。何もいわれなくなると(相手にされなくなると)さみしくなって、どうしよう、と思うんだよね。
メンバーを増やすことができなかった。
それは、やはりなかなか難しいよね。ビック錠は、劇団を一緒にやりたがってたけど。あながち冗談でもなかったかも。メンバーというと、ぶらぶらしている若い男なんて漠然としたイメージであるけど、実際出会ったぶらぶらは、中年の男ばかりだったね。面白い人が多かった。
勉強になった。今後の自分を考える上で。さて、耳だれ?が今後の居候ライフにどう生かされるか
パっとはいかないだろうけどね。でも、耳だれ?はぼくにとっては、居候ライフの延長みたいだったから、得るものは多かったはず。どこにいても、なにかしらひっかりはあって、そこから何か出来るんだなぁ、と改めて思った。
また、耳だれ?、やりますか?
やりたいねぇ。まぁ、最初の予定では、冬とか春に劇場でやる、っていうのがあったけど。これについては、僕が強力にやりたい、というのではないから、様子 を見て。旅公演は、荷車で移動しながらではどうか、というアイデアがあるよね。これ面白そう。荷車もとむ。あと、東北のほうにも行きたい。耳だれ?はまだ よくわからんけど、冬が終わったら、テントを目一杯使うつもりだ、わーーい。恭平は。
あと、恭平の料理の幅広さには、舌を巻いた。小うるさいのは玉に傷だが、そのおかげで、食事は充実してた。うまかった。それが、旅に大きないい影響を与えたね。ぼく一人だとケチくさい食事になっただろうな。勉強になったよ。
劇団なの?,と言われるたびに、いやーあんまり演劇っていうものではないんですよ、と言葉をにごしていた。そう、いままで見た演劇はほとんど苦痛だった し、演劇の体質もふるくさそうでいやだった。能を見て、その空間の使い方の自在さに心動かされた。そこから、演劇的な空間に少し踏み込んでいけるように なった。
耳だれ?の客は毎回少数だった。でも、それは今の自分には合っている気がした。特定のだれかのための作品に興味があるらしい。少なかったけど、いい客に巡りあえたし、その人たちは、耳だれ?の事を長く覚えてくれているような気がする。
耳だれ?の旅は終わりましたけど、この耳だれ日記は書ききれてないこともおおいし、これからも書き足していく予定ですので、乞う御期待。
また、どこかで耳だれ?旅のなんだろ、出来事とか出会いを発表したい。乞う御期待。そして、どこかいいとこないでしょうか。
その時、旅で出会った人たちと再会するのが楽しみだ。そんなパーティ、展示がしたい。(てつオ)