太平洋戦争のことが腑に落ちる

以下、2年前の書きかけ

ここ何年かで、「ああ、なるほど」と太平洋戦争のことが腑に落ちるようになった。

私が生まれたのが1969年。私にとって戦争というのは、すごく昔のことで別世界で全くイメージのつかないことだった。しかし、実は私の生まれるたった24年前に、日本は戦争をやっていたのだ。45歳の私にとって、24年というのは手に取ることのできる時間だ。
生まれる24年前に、鬼畜米英、現人神、竹槍、特攻隊みたいなことをしていた。兵隊も国民も犬死にしていった。それがリアルなこととしては私は感じられないできた。

戦中世代の父親は、また軍国主義に戻るのではないかと、いつも本気で心配していた。確かに中曽根首相とかが「不沈空母」など言うのを聞くと、私もなんだか物騒だなと思ったが、まあそれでも、戦前にもどるというのも杞憂なのではないか、と思ってきた。

それが、東日本大震災以降、日本の人々がこんなんだったら、そうもなるだろうとリアルに感じられるようになってしまった。こんなかんじだったんだろうか、と感じられるようになった。父親の心配がリアルに感じられるようになった。

結局、原発事故でも変わらないように、日本は敗戦でも変わらなかったのではないか。
原発事故の反省がされない。誰も責任を取らない。原発は国策で行われていたのだから、原発事故は国民みんなが加害者だ。また同時に被害者でもある。これは、太平洋戦争でも同じだ。そして、責任がなかったように、だまされた、という。


戦争でただ一つ得たもの、それは、憲法9条に他ならない。
日本人民を信用できるかどうか。私はどうしても信用できないのだ。それは、近隣の国々の人々が感じているのと同じだろう。だから、憲法9条が唯一の救いと感じるのだ。