南京大虐殺について

私は南京に行ったことがある。
1991年、大学を休学して、1人、大阪より鑑真号に乗って上海入った。(そのときの私のイメージは、もちろん金子光晴「どくろ杯」。日本から逃げるように船に乗り込んだ。)当時の上海はなんだか大変な街で、ソー・エキサイティングで、疲れ果て、脱出しようにも、窓口は人がいっぱいで切符も買えない。なんとか杭州へとたどり着いたのは2週間後だった。杭州とは南宋時代の臨安の都。落ち着いた風光明媚ないい街。急に温かくなり、毎日晴れた、江南の春というやつだ。小籠包にはまって、そればかり食べてた。美味しかった。とくに美味しかった店が目に浮かぶ、ほとんど醤油は入れず、酢で食べる。
そこから、南京に向かった。今や、杭州ー南京間は、新幹線みたいなので1時間のようだが、当時そんなものなく、記憶がはっきりしないが、バスに乗ったと思う、その車窓の風景は、外国映画・ロードムービーのようだった、どこまでも続く道、砂埃、生きたまま鶏を売っている、高い煙噴く煙突、雑な感じの開発・・・。おそらく無錫に着き、そこから鉄道に乗った。南京には絶対行かなくては行けないと思っていた。私は、中国に行く以上、南京大虐殺の記念館に行かなくてはいけないと思っていた。

とにかく南京は立派な街だ。
明の時代の首都、中国が世界の最先端で、世界最大の街だった南京。高い立派な城壁で囲まれた街。その後、ヨーロッパなど城壁で囲まれた街に数多く行ったが、あんな立派で巨大な城壁が残っている街は他にないのではないだろうか。私が進撃の巨人というマンガを見た時(好きではないので読み進めてない)、その城壁で囲まれた街を見て、思い出したのが、南京である。
当時の南京は蒋介石の国民政府の首都である。蒋介石は兵を置いて逃走する。そこに攻め込み、開城する日本軍。残された多数の中国兵と、市民。城壁の中は非常な混乱だったことは予想がつく。

私は南京駅に着いて、その城壁の上を歩いたのを覚えている。
城壁は東京で言えば、山の手線くらい、京都で言えば、ちょうど街全体、206系統が走るくらいを城壁が囲んでいる感じだろう。城壁の上から、南京の街を眺めた。ここで虐殺があったんだと思いながら。私は自分が日本人であることに非常に緊張していた。

城壁から降り、おそらく路面電車かトローリーバスに乗って向かった。降りるとちょっと町外れ、歩いて探した記憶がある、記念館は急にあった。新しいけれど、こじんまりとしていた。そんなに来客はないようだった。広島の原爆資料館のような感じをイメージしていた私には意外だった。

非常に緊張した。この辺には、掘ると遺骨がまだまだ埋まってるとのことだった。展示内容はそんなに覚えていない。辛い写真がたくさんあった。人間が無抵抗の人間を殺している。殺し合いよりも、一層、人間の嫌なところを見せつけられる。本当に嫌。

展示の最後は、田中角栄の写真で、とってつけたようではあったが、日中友好で締められていた。とってつけたようではあったが、私は本当にほっとした。ちょっと息がつけた、そのことは覚えている。これだけでも田中角栄に感謝しなくてはいけない。

そのあと長江に行った。
死体が累々としていたという河原。刀で捕虜の首を切ったり銃殺して河に突き落としていったという河。長江は本当に大きくて、ゆったりと流れていた。
私は、南京には長居できなかった。本当は、ゆっくりとして南京市民と交流すべきだろう。でも、私は、私が日本人であるとバレるのがこわかった。つまり、日本人であることに緊張していた。

私が日本政府に、特にいいたいことは以下だ。
どうしょうもない国民だから、首相がどうしようもなく、国内でどうしようない政治が行われるのも仕方ないかもしれない。しかし、対外的にはそれは止めて欲しい。どうしようもないのが外国にバレて恥ずかしいだけでは済まされない。中国にも、南京にも日本人がいる。政府がアホなことをすると、居心地は悪くなり、苦しめられる。

日本政府は、南京大虐殺の被害者を追悼し、謝り続けて欲しい。そして、ユネスコの記憶遺産登録は本当によい機会なので、中国側に協力し、南京事件について共同研究を進めて欲しい。そしてその研究は日本にとって、必要だし非常に重要だ。そして、私もなんで大虐殺が起こってしまったのだろうかと考える。日本軍の体質と差別の問題。日本社会がそれらをそのまま引き継いでいるのが、明らかになりつつある現在、考え続けることは切実だ。

追伸

googleで検索すると、「南京大虐殺はなかった」みたいなとんでもサイトが上位に多数ヒットする。どなたか、googleに抗議してもらえないだろうか。または、抗議の仕方を教えてもらえないだろうか。
南京はその後8年にわたり日本が占領し、また中国全土で戦乱が続いたのだから、はっきりしない論点があるのは確かだろう。戦時中日本を非難するプロパガンダにも使われたろう。しかし、日本軍が隠滅をはかったとしても、残された証拠、証言や資料は多数だ。無かったことには出来ない。そして無かったようにしようとすることが、どれだけ、被害者を傷つけ、怒りを起こすか考えたことがあるのだろうか。

追伸

私が、歴史のねつ造をはじめて目の当たりにしたのは、10年程前沖縄の県民大会のこと。記憶があいまいなのでネットで調べながら記す。

その県民大会は高校歴史教科書から、集団自決への軍の関与の記述を削除することに反対した集会だった。11万人集ったとされ、撤回へと大きな力になった。産経新聞が、朝日新聞の記事にかみつくかんじで、写真で数えたかで、多くて4万3千人だと書いた。自由史観というんだっけの人たちが、声明を出しこれも写真を数えて2万人集っていないと声明を出した。ネットで人がまばらな写真を載せ、10万もいるはずないとの記事などもあったと思う。一部ネットでは、11万がねつ造で、2万が真実みたいな風だった。
写真というので一見客観的な風をよそおっている。でも写真、それは何時に撮ったものだろうか、どの範囲を撮ったものだろうか。
だいたい沖縄の人は、定時には集まらない。行った人に聞くと、参加する人で会場までの道が渋滞していて、遅れてどんどん人が集って、会場に入りきれない人でいっぱいだったとのこと。すごい熱気だったと。
確かに11万は正確な数字ではないだろう。でも、行きもしないで、写真だけ数えて客観をよそおう。そしてそれが力をもってしまうことに驚いた。ひどい、と思った。こんなふうにして、歴史は改ざんされるのだと思った。こんなんじゃ南京大虐殺の改ざんなども簡単に行ってしまえるのだろうと感じた。

集団自決について。
集団自決ということが、どれだけの悲劇か、生きのこった人もどれだけ傷つくことだったか、想像を超えることだ。軍の関与を認めないというのは単に責任のがれだけではない。責任を沖縄に、当事者に、死んだもの、生き残ったものに押しつけることだ 。それがどれだけひどく、傷つけることか。それがわかっているから、多くの沖縄の人が集った。それをまたわい小化しようとする。ひどすぎる。