「この世界の片隅に」その2

(核兵器禁止条約に日本が不参加というニュースに怒りを感じながら・・・)

「この世界の片隅に」は、実は、年末に広島で見た。
映画が終わっても、立ち上がる人はいない。

一般に、映画館における映画が終わったあとの時間、そこには皆少しずつ我に返る中で、映画という同じ体験をしてきた者たちの一体感があり、独特の雰囲気がある。

最近では、「あん」(これは樹木希林に圧倒される映画だった)の上映会で、すすり泣きがすすり泣きを呼び、涙を流した者たち、つまり観客のほぼ全員が、立ち去りがたく立ち上がるまでの2テンポくらいの時間、そこに「いい映画だったな」と感じあう雰囲気があった。
また、昔、救いのない感じで終わった「ダンス・イン・ザ・ダーク」という映画のあと、叫びたくなるような嫌な感じが映画館中漂っていたのを、今思い出した。

しかし「この世界の片隅に」上映が終わった後は、今までに体験したことのない感じがあった。
それは、圧倒的な映画体験のあと、大きく感情を動かされ、急には立ち上がれないもの者たちの一体感だったのだけど、そこには広島で生まれ育った人が持った感情が入っていたはずで、それは、私にはわからないところもあるのだった。
この映画には最大限の賛辞を送りたいが、拍手をしていいか、わからなかった。

映画館は八丁堀にあり、そこは爆心地の原爆ドームから電停で3つ目の繁華街。映画館を出ると、プレートがあった。向かいの大きな百貨店の福屋は被爆建物であることが記されていた。
この映画館に来るまで、原爆ドームから、元安橋をわたり、紙屋町の商店街を歩いてきた。ちょうどその原爆前の街並みが、映画の冒頭、すずさんが海苔を売りに行くシーンで生き生きと描かれている。
つまり、この映画には、広島のここは、こうだったのか、ここでこういう生活があったのか、ということがいっぱいあり、それが原爆で失われてしまったという事実の巨大さに圧倒されてしまう。

私は、広島に来ると必ず、原爆資料館を訪れる。
今の広島は一見すると、原爆ドーム以外、原爆の跡はわからないが、それは一見であり、歩くとそこかしこに、原爆のモニュメントはある。そして、70年を超える古い建物がないということ、樹齢70年を超える樹木がないということ、そのどこかのっぺらぼうな感じが、そのまま原爆を物語っている。
つまり、街を歩くと、現在の街の風景の中に、資料館で見た原爆の廃墟が、二重に写る体験をする。
そして、この映画を見ることによって、そこに原爆前の生き生きした街の姿が加わり、三重に重なる。そして、それこそが真実であり、それが本当の姿である。

京都から、広島に行くとどこか落ち着かない。
京都のそこら中にある「古さ」、濃密なかんじ、広島ののっぺらぼうなかんじ。

小川てつオは、広島について以下のように書いている。

一瞬にして、ほとんどが破壊されてしまう。ということがどういうことか、考えてみる。人もなくなる、家もなくなる、それまでの歴史がなくなる、歴史の手がかりもなくなる。そういうことが大規模に起こったのである。その日、その日、を前に向かって進むしかないだろう。と、同時に、過去はわずかに残ったものをモニュメントとするしかない。記録すること、モニュメントをつくること、そのことが、歴史が消えてしまったことに対抗するということになる。だから、過去のモニュメント化と再開発が、広島で同時進行的に現れるのは、原爆という巨大な暴力にさらされた人間の切実で苦しい反応のように思う。そして、それは変化しながらも今も続いているようだ。うまく言えないのだが、クリーンであるということに、逆に広島の闇の深さや複雑さを感じたのだった。

「広島太郎と再開発」 http://yukuri.exblog.jp/7318110/
(リンク先の文章は面白いので、是非、読んでみて下さい)
 

京都は当初原爆の第一目標だったといわれ、昨年新しく出来た鉄道博物館のある梅小路車庫が、投下目標だったとの説がある。そこは私の自宅から、2キロも離れていない。

原爆の投下目標とされた街には、原爆の効果を知るためにアメリカは空襲しなかった。この映画でも、度重なる空襲がある呉とちがい、広島には空襲がこないことが描かれる。「広島に疎開したら」とまで語られている。
大阪、神戸が空襲で焼かれたのに、京都にも空襲がほとんどなかった。

原爆の投下の第一目標が京都から広島に変わり、広島に落とされ、京都には落とされなかった。広島は多くを失い、京都は、古い街並、文化、そして人間が残った。

もし、京都に原爆が落とされたらということを考えてしまう。東寺も東本願寺、西本願寺も吹き飛ばされ、町家が燃え尽くされる中、逃げ、鴨川の水を求める被爆した自分。
しかし、広島で育つということは、もしではなく、現実に原爆の落とされた街で、生きるということだ。

広島の街を歩き疲れ、
映画でキラキラしていた「江波」に行きたくなった。
路面電車の終点、江波は、ほっとする町だった。ちょっと瀬戸内海っぽい細い路地の入り組んだ古い昔の町並みがあった。爆心地から4キロ、建物は半壊だったらしい。かわいらしい海神社があった、これは被爆建物。現在海苔の養殖はしておらず、代わりに牡蠣の加工場が連なっていた。

岡を上ると、かつて気象台があり(被爆建物)、工場の向こうに海がみえた。ここから、すずさんは、波のうさぎを描いたんだな、と思った。