青い芝とバリアフリー

ほんの少し関わっただけの人間がいうのは、どうなんだと思うけれど、
伊是名夏子さんのブログからの議論の中で、
脳性まひ者の会・青い芝の運動、川崎バス闘争とかがでてきて、違うなと思うことがあるので、書いてみたい。
青い芝のやってきたことを、バリアフリーに結びつけるのは、運動を矮小化しているように感じる。まずは差別への怒りがあり、アクセス権の問題だとしても、設備を求めたわけでもないし、バスの乗務員に権利を求めたというより(普通にしてろ、邪魔をするなと求めたとしても)、なんといっても、そこらの健常者に対してつきつけたんだと思う。

青い芝に関わっていたのは1994年頃で短かったけど、色んなことを考える強烈な体験だった。それに全然お返しすることができていないと感じる。
そこの青い芝では、駅では通行する人を捕まえて、車椅子ごと階段をあがっていた。健常者は介助するものだ。それは労働ではなく、人と人のつき合いだと。

私は介助者として車イスを押していたが、階段で呼びかけをするのは、基本的には青い芝の人本人だ。発語にマヒがある人が多く、慣れないとその言葉は聞き取りにくいのだけど。
もし、駅員が車イスに手をかけてきたり、何か言ってきたら怒って、あっち行けという。荷物用のエレベータなどに連れて行かれそうになったら猛烈に抗議していた。

広島で青い芝の総会があったとき、確か金沢あたりから、全く介助者なしで、車椅子(電動ではない)で、来てた人(当時の会長)がいた。
道で、駅で、通行人を呼び止めては、途中まで車椅子を押してもらう。また、呼び止めて進んでいく。3人くらい呼び止め階段を上がり、電車に乗り、電車の中でも乗ってる人に呼びかけ降ろしてもらい、電車乗り継いで、広島まで。

介助するのは当然。重い車イスを階段で上げるのは、人間のつき合いとして当然のこと。
そう、駅の階段は、障害者による健常者に対する、介助というもの、介助は当然なのだということ、「共生社会」(この言葉でよいだろうか?)についての、教育の場であったと思う。
駅員にされてしまったら、障害者は障害者として囲い込まれてしまう。施設のように。

ただ、エレベーターついては、私はそれができたら楽だと思った。
そう、エレベーターができ、楽をするのは健常者の方。
本当は健常者の都合なのだ。

バリアフリーは、全障連などの運動によって勝ち取られていったのだと思う。エレベーターはたしかに、健常者への教育の場を奪うのだけど、障害者にとっても、健常者にとっても、老人やベビーカーなどにとっても、便利で楽なもの、なので、反対はしづらい。

また、介助に行政からお金がでるようになっていった。介助はつきあいからサービスになっていく。
これらは勝ち取られたものだ。自立生活がしやすくなっていった。でも、青い芝の理念が、お金やサービスに負け、運動の力が失われていく過程にもかんじた。

エレベーターができ、健常者への教育の場がなくなり、通りがかりの健常者が介助をすることがなくなっていった。
そして、駅や電車での介助が駅員の仕事とされていった。
ここでも介助がつきあいではなくて、サービスになってしまった。介助がそこらの人がする当然のことでは、全然なくなっていってしまった。
そして、今回問題となったように、事前に駅員に言わねば無人駅で電車に乗れなくなってしまった。

たしかに設備・またはサービスとしてのバリアフリーは、少しづつできてはきているのでしょうが、それは初期の青い芝の運動とは全く反対の方向だと思う。

伊是名夏子さんの求めを、自分は全く関係ないところにいるかのようにバッシングする健常者。実は自分が問われているんだと全く気づかない。
昔の青い芝の提起していたことは、実現されていない。そして、全く色褪せないばかりか、この酷い状況下、ますます輝いているように思う。

*追記1

介助は「つき合い」というのが肝だと思う。
当時、介助に対して、行政から支援はなく無償だったが、
決してボランティアという言葉は使わなかった。
また、介助者手足論みたいなのとも違う。
「つき合い」としか言いようがないものだった。

*追記2

94年当時は過渡期だったんだと思う。

青い芝は、行政から介助にお金がでない時代、施設や親元から独立して地域で暮らすということを目標とし、実践していた。
それ自体が命がけの闘いであった。なんといっても介助者を見つけることが肝であり、それは運動の中心であった。
全身に麻痺があり、24時間介助があった方がよい人が、田舎町で一人暮らしをしていた。
介助に行くと、夜は介助者探しのため、毎日長い時間をとられた。
示された電話番号録から、言われた人の番号に電話をかけ、受話器を耳元にもっていく。
発語にマヒがあるので、かなり聞き取りにくい声で、いつ介助できるか尋ねる。
何人に電話をかけても、なかなか介助者は見つからない。

私はその家に、結局一週間ずっといたことがある。
それは、私にとって京都から離れての現実逃避の意味もあったし、活動(街頭でのカンパ集め、施設訪問、飲み会等)のほかは、日常は割としずかで、一緒に買い物にいってご飯を作ったり、映画を見に行ったり、銭湯に行ったり(他のお客さんにも介助してもらって)、、、
だけど、「つきあい」だしても、そんなに時間と体力に余裕のある人は、勉学をさぼっている学生くらいしかいない。
そして、介助を求める障害者の苦労の10分の1もないかもしれないけれど、その苦労を知っているだけに、介助を求める電話がかかってきて、それを断るのは結構重い気持ちになることだった。断ってまで、自分にするべきことがあるのかと問われる気がしていた。

最初、東京の町田市かなんかで、介助に何十万か出るという話が、青い芝の会議か何かであったとき、複雑なかんじで色めき立った。介助者を雇うことができるわけで、それは全国青い芝の方針と違うとしても、確実に介助者集めの苦労が減る。(そして、「つきあい」として無償で介助をしている私たちにとっても、えっお金もらえるの、ということは複雑な気持ちになることでもあった)

公的支援を求めたり、駅にエレベーターを求めたりする運動は、全障連という団体が担っているようで、着実に成果をあげているように思えた。
私はその経緯などは知らないけれど、全障連の創立には青い芝が関わっていた。でも当時はおそらく、全国青い芝は全障連とは関わりを断っていて、東京青い芝や大阪青い芝などは、全国青い芝から脱退して、全障連の方だったのではないか。
全国青い芝はとても全国組織といえないかんじになっていた。

青い芝にあった社会に強い意識改革を突きつけるラディカルさはないとはいえ、公的支援を求める運動をとても否定することはできない。
実際、公的なサービス・支援、エレベーターや電動車いすなどの充実によって、(そして運動や働きかけ、地道な実践等々で)、地域で生きることが当時よりはずっと可能になった。
それは、すごいことが勝ち取らえたのだと思う。

一方、青い芝が提起してた事も全く色あせていないと思う。


私はほんの一時期関わっただけで、その後のこともあまり知らないし、本を読んだり、人に聞いたりもしていないので、
認識違いや間違いなど、いろいろあるかもしれません。ご指摘いただけたらと思います。