24日のイベントの話に戻って、、

<<上田假奈代さんが、やっぱりテーマは「ホームレス問題」ではなく、「この社会でどう生きるか」というものだった、とココルームのメーリングリストで書いていました。>>

てつオや美佐子さんと話して、あまり話し合いにならなかったことがあるという話になりました。

1 ホームレス文化について
2 ホームレスという生活を選んだのかということ(自立)
3 支援というものあり方

1 ホームレス文化について

てつオのブログに
ホームレス文化 http://yukuri.exblog.jp/m2005-03-01/#1848

ホームレスという存在は認めても、そこに暮らしがあり、文化があるということについて認められていないのではないか。

橘さんの詩集の中に杉原洋三さんの詩があり、寄せ場詩人の同人の方でしょうか、その中に「釜が崎なんてない方がいい」という言葉が出てきます。路上で凍死者がでる釜が崎。その言葉の重さを私は想像するしか出来ないのですが、釜が崎にはこの言葉に共感する人たちがいるはずで、その人たちが持つ連帯感や文化がある。それは大切なものだと思う。そして、すてきな感じもする。(学生活動家が釜が崎にいって、釜が崎でしか使わない言葉を覚え、使ったりする感じ。)
だから、この釜が崎なんてない方がいい、というのは、上からいったりするのとは違う。

文化についてはやはり声高に語るより、その素敵なところをどんなふうにか表現するのがいいような感じがします。そういう意味では、今回のイベントでは、直接その言葉で議論はなかったけど、いろいろ出演者を通じて、文化(それぞれの)が伝わったのではないか、と思います。

2 選ぶということ

ホームレスを選んだとてつオと美佐子さんがいわれすぎたな、という感じはしました。ポポタム発行、Harappa03号のてつオのインタビューから引用します。

「オレたちは(おまえのように)遊びでやっているんじゃない」という言い方をされることもありますが、でも、ぼくにはぼくの切実さがある。それを伝える言葉、彼らの腑に落ちる言葉を見つけたいと思っています。
それに困窮といってもたとえば娘や奥さんがいるけどプライドがあって家に戻らないなど、ここにしか選択肢がないという人ばかりではない。……いろいろな人がいるんです。その人の中では、ここにしかいられないということです。

ホームレスを選んだともホームレスを選ばされたともいえる。人それぞれちがいはあってもそれらの中でそこにいる。また、そこにいるといっても、「ここにいる」と「ここではない」の両方の気持ちがあって、そこにいるように思う。
これらの事は、当然ホームレスという生き方に限って出てくる問題ではない。どの人もそれぞれの現場でゆれながら「ここにいる」ということをしているんだと思う。

上田假奈代さんが、生き方の話になったといっていたのはこのへんの事をいっているのだと思う。假奈代さんは、つっこみたりなかったと言っていたけど、あらためて思い返すと、イベントを通じて、この辺の事はベースの音のようにひびいていたのかもしれない。

3 支援のこと

東京都のホームレス自立支援については、

てつオのブログを
http://yukuri.exblog.jp/m2005-07-01/

支援団体のホームページ
http://www.geocities.jp/kouennokai/index.html

公園のコミュニティーが培ってきた文化についての認識がうすい。ブルーテントからでて、アパートで一人暮らし=自立となっている。

それに対して、公園の生活の方にこそ可能性があるということだろう。
今回出演してもらった大阪の長居公園仲間の会のパンフレットもそのような立場からかかれていたと思う。

こうして、みてみるとつっこんで話されなかったことはあるけど、いろいろなことが出たきて次に広がるようなイベントだったと思う。とくに、女性ホームレスの事が話されたことはとても良かった。どんどんひろがっていくと思う。次回を。