戦争に協力したくないので、消費税払いたくないです (2001)

(2001年、アメリカがアフガニスタンに空爆を開始したときに、戦争に反対して書いたものです)

消費税払うのやめたいな、やめようかな。

何もしないでいると戦争に協力してることになってしまう、という事実があります。
私は戦争に協力したくない、最低なんとかニュートラルな人になりたい。でもそんなことが可能なんだろうか。
ひっぴぃが性暴力について、ほっといとおくと加害者になってしまう、どれほど加害者でなくなるのが・いないでいるのが大変か、といっていたのを思い出す。

まずははっきり自分が加害者だということを知るところから。

政府や国会がアメリカの戦争に協力すると言ってて実際になんか参加したりすることにどうも私にも責任がある、選挙権があるし、それは投票だけじゃなくて、選挙運動する権利や立候補する権利も一応あるわけですから、また選挙だけじゃなくいろいろ運動して政府とかに働きかける権利もみとめられているわけだし。

そして、税金も払っている、消費税。一日あたり100円くらい払っていることになっているのではないか、そしてそのお金の一部がアメリカの戦争のために使われることになったりする。(もうすでに例えば米軍に対しては毎年毎年思いやり予算ということで税金が使われているし。)

毎日毎日そう思って消費税をとられることから始めたい。

「戦争に協力したくないので、消費税払いたくないです。」とかかげて店に行ったりしてみます。なんていわはるかなというかんじで。ーーそれはてつオがやってることに刺激されてもあって

(じつは最近、消費税って面白いなあ、と思う。)

消費税って、不思議というか国税なのに税務署じゃなくてお店が集めているし、それは国の仕事、それも税金を集めるという大変な仕事を文句をいわずタダでやっていて、それが自然なかんじぐらいまでなってきて、とるほうもとられるほうもそれに気付くともなく従っていて、なんやろ国というのがそこら中にあるような。
消費税ってよくわからないけど今のシステムを象徴してるようなシステム(ちがうかな)だから、逆の利用の仕方もある!と気付きました。国の施策に反対するときに、消費税を払わないといえばいいのだ、と。私たちはすごいものを手に入れたのかもしれない。反対をいうときにわざわざ国会まで行かなくていいのだ。いつからでもどこでもだれでも、すぐに国に対する意見を表明できる手段を手に入れたのだ。そして、それは効果のある、たとえほんの一部の地域でも消費税不払いがはやればほっとけないようなことで、そしてとても拡がりやすいはずだ。

(加害者であることについてーこれまたひっぴぃに教わっているようなことです。)

アメリカがするといってる戦争に協力すると日本政府や他の国がいったりするのは、アメリカのいってることが正しいからではなくて、単にアメリカが圧倒的に強いからだ。もしアメリカが弱かったらそんなに簡単に戦争に協力するなんていえない。(かきかけ)

(「戦争反対」か「戦争に協力したくない」か)

戦争反対のほうがいいような気もする。
空爆が始まって次の日、東京から京都まで戦争反対という紙を胸につけて東海道線にのってみた。そうすると戦争反対を訴えているというより、自分が戦争反対という人になったみたいだった。My name is センソウハンタイ。それは自分に完全にしっくりするものじゃない。そして、そのしっくりこないかんじを大事にすること、どうしっくりしないのか、なぜしっくりこないのか考えることって大切。いろいろ、my name is をやってみようかな。(書きかけ)

「戦争反対」という言葉は言葉としてもいいなあと思う。

(てつオの「アメリカの軍事行動に反対します」について)

てつオはいつも胸にピンクの布をつけていて、そこに水色の字で「アメリカの軍事行動に反対します」と書いてある。そのこころをきいてみた。居候先はよくテレビを見る家で、あのテロのあった日(東京は晩)もずっとテレビをみていたらしい。何もいえない感じだった、という。ただ、ブッシュが戦争だ、報復すると繰り返し叫んでいるのを聞いて、それは違うと思った。そのことだけは確かに言えた。そして、テレビで繰り返し、戦争するということを聞いてしまったので、それに対して答えなくてはいけない感じがした。

(政治と表現について、全体に考え中)

表現は自分の何かに正確(自分の気持ちに正確な感じで正直)であるのが命。てつオの表現は正確で、さすが表現者と思う。
私のしていることはどこか正確ではない。それは、今まではさけていたことだで、政治というものがよくなく感じられるとすれば、自分の何かとしていること(言ってることとかとか)が違っていると感じられるとき。(政治では自分の感覚よりなにか効果のようなものを優先させていたりする。) 耳だれ?のとき考えていたりしたテーマです。

間違っているかもしれないけど、今回のNYとかのテロは表現といて成立していると思う。日本赤軍の「武力闘争は最大のプロパガンダである」という言葉を思い出す。少しニュアンスが違うのかもしれないけど。そして、アメリカのしていることは悪い意味での政治でしかないなあ、と思う。(テロも悪い意味での政治でしかないかも)ーーこれは私の場所でわかったようなことを書くようなことではないですね。

私は、とりあえず表現して、それが自分の何かとずれているとして、そのずれをちゃんと丁寧の考えるという事をしてみたいと思っているみたい。それは危険な事、もし自分の何かを無視することになったらおしまいなので。

(NY在住の宇多田ひかるさんのメッセージ)

生きてます!!!
10月9日(火)16時07分
一人の子供が深く傷ついて、泣いてるところを見ると、なんだか「人類」っていうもの全部が泣いてるような気がするのね。そして全人類でその子を守ってあげなきゃいけないような気がするの。守ってくれるはずだった人に裏切られた時って、世界のもの全てに裏切られたような感じ、するじゃない?だから九月十一日に起きた突然のテロ攻撃をアメリカだけではなく、「全人類に対する攻撃」だって言うアメリカ政府の気持ちってちょっと分かる。でもね、今この瞬間にも行われてるアメリカによる報復の爆撃も、「テロに対する戦争」だって言ってるけど、どうしてもそれもまた全人類に対する攻撃のようにしか思えないの。だってどこかでその子がもっと泣いてるような気がするんだもん。21世紀が泣いてる・・・ こっち側にはこういう正当な理由があるとかあっち側にはこういう歴史があるとか、報復すべきか、どっちの方がより多くの被害を受けてるのか、自分はどういう見解を持てばいいのか、そのスタンスをどう周りに表明すべきなのか、って世界中の政治家も国民も議論してるところだけど、なんか私はみんなに怒りでいっぱい。戦争というものがいかに政治と経済の問題であるかってことを改めて実感してます。国民の怒りをあおる政府もメディアも、身近にいる外国人に仕返しをする人達も、テロ撲滅に参加するって言ってる政治家も、5ドルのちっちゃなアメリカの旗を自分の車に飾ってるアメリカ人も、電車で隣りの席にアラブ人っぽい人が座って少しでも「やだな」って思う日本人も、みんな自分を痛めつけてるだけで、すごく悲しい。ニューヨークはどこにいっても、星条旗だらけなんだ。タバコ屋のレジにも、5番街のカルバン・クラインのショーウィンドウにも、走り過ぎてく車のアンテナにも、メジャーリーガーのヘルメットにも、今まではあったかく見えたアパートや一軒家の窓にも。一つ国の国旗を振りかざしてる時じゃないと思うんだけどなぁ・・・私はとりあえず、音楽を歌い続けてます。

(アメリカは失礼である。そして男は失礼である。)

誤爆。本当に嫌な言葉だ。間違ったですむと思っているのか。間違ったで殺されるものの身になってみたまえ。でも本当に間違ったですむと思っているんだろうなあ。

(今日デモに参加した。)

反省を書きます。デモにいくと一番後ろを歩いてしまう。デモの一番後ろはちょっとあいまいで、それでいやすいのかもしれない。歩くのが遅いせいで、人の後ろを歩くのがくせになってるせいもある。でも大事な場所だ。交流の場所になったりしやすいので。で、自転車をおして、ドイツ人の人がついてきて、話しかけてきた。うまく話ができなかった。ジャンベの音やトラメガの音がうるさかった事もあるけど、英語が出てこない。良くないことに他の人がその人に日本語で書かれたちらしを渡した、日本語わからないというと、ああ、でその人はいってしまった。そのドイツ人は途中でさみしそうにいってしまった。コミュニケイションがうまく出来なかったことが問題ではなくて、こちらにコミュニケイションをする意思あることを伝えられなかった。または、本当にコミュニケイションをする意思があったのかどうか。あなた、辞書ぐらい持ち歩きなさい、そのくらいのことが言えたら良かったのだけど。